駐ソ大使時代
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駐ソ連大使の任命は、日本にとって戦局が悪化する中で、日ソ中立条約を締結していたソビエト連邦との中立維持がその最大の目的であった。佐藤は中立条約締結時に当時の松岡外相が約束していた北樺太の石油・石炭利権の移譲、および日ソ漁業条約の更新を1944年(昭和19年)3月に調印にこぎ着けた。また、日本からは仲介による独ソ和平に向けた交渉を要請され、佐藤はそれに従ったものの、イデオロギーなどで全面的に対立する両国が和平に応じる見込みはないという電報を外務省宛に送っている。独ソ和平に消極的な佐藤の態度に対し、日本国内では陸軍から佐藤の更迭論まで出たが、重光葵外相が交代に反対し、廣田弘毅元首相を特使として派遣できるようソ連と交渉して陸軍をなだめることになった。佐藤はこれに基づいて、1944年9月にヴャチェスラフ・モロトフ外務人民委員に特使派遣を申し入れたが、「特使派遣が何を目的とするか疑問である」という理由で拒絶された。だが、その後も重光からは陸軍の意を受ける形で、日ソ関係の強化と独ソ和平仲介への交渉を求められ、そのたびに佐藤は「中立関係の維持そのものが問題になりつつある」と否定的な返答を繰り返した。こうした日本から寄せられる「日ソ関係改善論」について、戦後に佐藤は「かつて軟弱といわれた自分以上の軟弱外交ではないか」と「せせら笑った」と回想している。 それだけに、条約の期限1年前までとされた中立条約の廃棄通告期限(1945年4月25日)が近づくと心中穏やかではなく、期日をやり過ごして自動延長を待ちたいと神頼みするほどであった。だが、4月5日にモロトフと会見した佐藤はその場で条約の1年後の廃棄を通告される。これを受けて佐藤が日本に送った電報では、ソ連の狙いは米英に好意を得るためのジェスチャーで対日参戦への決意を固めたものではない、このジェスチャーも米英にとってはむしろ迷惑に感じて米英とソ連の摩擦が増大する可能性もあると記した。同時に佐藤は「もしもヤルタ会談で決定した上で廃棄通告が出されたものだとすれば、自分の観察は根底から覆ることになる」と別の可能性にも触れていたが、「問題はそこまで深刻ではない」とこれを軽視することになった。 1945年5月のドイツ敗戦後、日本国内ではソ連を通じた「無条件降伏ではない和平」の仲介を求める動きが起きる。佐藤は既に戦争の大勢は決まった以上、ソ連が仲介の役に立つ可能性は少ないと判断して早期終戦を促す機密電報を東京の本省に送っている。7月に昭和天皇の意向で近衛文麿を和平交渉の特使としてモスクワに派遣することが決まると、7月12日に東郷茂徳外務大臣は佐藤に対して、特使派遣をモロトフに申し入れるよう訓令した。だが、モロトフとはポツダム会議の準備という理由で会うことはできず、外務人民委員代理のソロモン・ロゾフスキーに依頼を伝えている。佐藤は東郷外相の指示に従って行動したが、ここでも本省に対して具体的な条件を欠いた特使派遣の依頼ではソ連を動かすことはできないとして、無条件降伏に近い和平しかないという電報を送った。 佐藤は7月18日にロゾフスキーから「天皇のメッセージに具体的提議がないこと、特使の使命が不明確であること」を理由に特使を拒絶する回答を受ける。佐藤は東郷の指示で再度特使派遣をソ連側に申し入れる一方、ポツダム宣言直前の1945年7月20日に東郷に当てた長文の電報では、「すでに抗戦力を失ひたる将兵および我が国民が全部戦死を遂げたりとも、ために社稷は救はるべくもあらず。七千万民草枯れて上(引用者注:天皇)御一人安泰たるを得べきや。(中略)過去の惰性にて抵抗を続けおる現状を速やかに終止し、以て国家滅亡の一歩手前にてこれをくい止め、七千万同胞の塗炭の苦しみを救い、民族の生存を保持せんことをのみ念願す」と早期に「皇室の維持」のみを条件とした無条件降伏に近い講和を結ぶように要求していた。 佐藤は日本からの和平交渉特使派遣の回答をモロトフに求めていたが、ようやく8月8日に実現したクレムリンでの会見の席で、モロトフから対日宣戦布告を通知されることになった。佐藤は戦後「貴重な一カ月を空費した事は承服できない」と語っている。
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