国家滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/31 09:44 UTC 版)
11月、苻堅は自ら精鋭10万を率いて出征し、王猛と合流して鄴を攻め立てた。前燕の散騎侍郎余蔚(前燕に捕らえられていた夫余国の玄王の子。後の夫余王)は夫余・高句麗・上党の人質500人余りを率い、鄴の北門を開いて前秦軍を迎え入れたので、慕容評は慕容暐や慕容臧と共に龍城へ逃走を図った。慕容評は無事に退却する事が出来たが、慕容暐は前秦の游撃将軍郭慶に高陽で捕らえられてしまった。さらに、郭慶は進軍を続けて龍城へも迫ると、慕容評はさらに高句麗へ亡命したが、高句麗により捕らえられて前秦へ送還した。これにより前燕は滅亡した。慕容評の屋敷には大量の財宝が残されていたが、全て押収されたという。
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