駐オランダ公使・大使とは? わかりやすく解説

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駐オランダ公使・大使

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 05:49 UTC 版)

ジェームズ・ハリス (初代マームズベリー伯爵)」の記事における「駐オランダ公使・大使」の解説

1780年から1784年にかけて第四次英蘭戦争があり、イギリス勝利してオランダ愛国派(反英派・親仏派親米派)を一時的に打倒した。しかしすぐに愛国派が盛り返して英派総督ヴィレム5世威圧して再び政権握ったこうした情勢のなか、1784年5月ハリスは駐オランダ公使英語版)に任命されハーグ派遣された。外務大臣カーマーゼンフランシス・オズボーンからは「オランダにおけるフランス独裁的影響力をできる限り破壊せよ」と訓令されていた。 しかしオランダ国内の愛国派の影響力拡大していく一方で1785年にはオランダフランス同盟締結したハリスオランダ民衆に「この同盟防衛同盟ではなく攻撃同盟であり、オランダ国民を侵略戦争引きずり込むもの」と悪宣伝するとともに総督支援強化した。さらにプロイセンとの反仏・反愛国同盟の締結推進した。ま、た財政上の不安からオランダにおいて積極政策を採りたがらない小ピットジョージ3世説得して工作資金確保努めた1787年6月愛国派に国を牛耳られていくことを危惧した総督夫人ヴィルヘルミーネは、議会総督オランダ支配権を戻すことを訴えるためハーグ向かったが、愛国派の指揮する自由軍によって妨害されるという事件が起こった総督夫人の兄プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世激怒し9月にも総督夫人侮辱補償求め最後通牒オランダに送ったハリスも自由軍がハーグ迫っており自分危険にさらされていると本国訴えることでプロイセン支援の援軍物資オランダに送らせた。自由軍は各地での無法行為により国民から嫌われており、9月13日からオランダ侵攻開始したプロイセン軍オランダ各地歓迎された。9月20日ヴィレム5世総督派軍がハーグ入城したが、この際同行したハリス歓迎された。これについてハリスは「私はこの成功驚いている。一週間前には私はハーグから追放されるだろうと思っていた。しかし現在私の目の前から愛国派が逆に追放された。まるで夢のようだと書いている。1788年3月14日には公使から大使となった結局フランスイギリス牽制されて介入できず、オランダへ影響力喪失一方イギリス1788年4月15日オランダと、ついで8月13日プロイセンとの間に同盟締結した。 この一連の功績により1788年9月19日マームズベリー男爵叙せられ貴族院議員となったプロイセンからも黒鷲勲章ドイツ語版)を贈られた。1789年オランダ大使退任したオランダにおけるイギリス・フランス・プロイセンの勢力争い制し逆にフランス孤立させた手腕高く評価されており、フランス随一外交家シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴールは、のちに「マームズベリー卿は当時全欧的にもっとも卓抜した外交官であった」と称賛している。

※この「駐オランダ公使・大使」の解説は、「ジェームズ・ハリス (初代マームズベリー伯爵)」の解説の一部です。
「駐オランダ公使・大使」を含む「ジェームズ・ハリス (初代マームズベリー伯爵)」の記事については、「ジェームズ・ハリス (初代マームズベリー伯爵)」の概要を参照ください。

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