駐オランダ公使・大使
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「ジェームズ・ハリス (初代マームズベリー伯爵)」の記事における「駐オランダ公使・大使」の解説
1780年から1784年にかけて第四次英蘭戦争があり、イギリスが勝利してオランダの愛国派(反英派・親仏派・親米派)を一時的に打倒した。しかしすぐに愛国派が盛り返して親英派の総督ヴィレム5世を威圧して再び政権を握った。こうした情勢のなか、1784年5月にハリスは駐オランダ公使(英語版)に任命され、ハーグに派遣された。外務大臣カーマーゼン侯フランシス・オズボーンからは「オランダにおけるフランスの独裁的影響力をできる限り破壊せよ」と訓令されていた。 しかしオランダ国内の愛国派の影響力は拡大していく一方で、1785年にはオランダとフランスは同盟を締結した。ハリスはオランダの民衆に「この同盟は防衛同盟ではなく攻撃同盟であり、オランダ国民を侵略戦争に引きずり込むもの」と悪宣伝するとともに総督派支援を強化した。さらにプロイセンとの反仏・反愛国派同盟の締結を推進した。ま、た財政上の不安からオランダにおいて積極政策を採りたがらない小ピットやジョージ3世を説得して工作資金の確保に努めた。 1787年6月、愛国派に国を牛耳られていくことを危惧した総督夫人ヴィルヘルミーネは、議会で総督にオランダ支配権を戻すことを訴えるためハーグへ向かったが、愛国派の指揮する自由軍によって妨害されるという事件が起こった。総督夫人の兄プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世は激怒し、9月にも総督夫人侮辱の補償を求める最後通牒をオランダに送った。ハリスも自由軍がハーグに迫っており自分が危険にさらされていると本国に訴えることでプロイセン支援の援軍と物資をオランダに送らせた。自由軍は各地での無法行為により国民から嫌われており、9月13日からオランダ侵攻を開始したプロイセン軍はオランダ各地で歓迎された。9月20日にヴィレム5世と総督派軍がハーグに入城したが、この際に同行したハリスも歓迎された。これについてハリスは「私はこの成功に驚いている。一週間前には私はハーグから追放されるだろうと思っていた。しかし現在私の目の前から愛国派が逆に追放された。まるで夢のようだ」と書いている。1788年3月14日には公使から大使となった。 結局フランスはイギリスに牽制されて介入できず、オランダへの影響力を喪失。一方イギリスは1788年4月15日にオランダと、ついで8月13日にプロイセンとの間に同盟を締結した。 この一連の功績により1788年9月19日にマームズベリー男爵に叙せられ貴族院議員となった。プロイセンからも黒鷲勲章(ドイツ語版)を贈られた。1789年にオランダ大使を退任した。 オランダにおけるイギリス・フランス・プロイセンの勢力争いを制し、逆にフランスを孤立させた手腕は高く評価されており、フランス随一の外交家シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴールは、のちに「マームズベリー卿は当時、全欧的にもっとも卓抜した外交官であった」と称賛している。
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