飛鳥から平安時代まで
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「千葉県の歴史」の記事における「飛鳥から平安時代まで」の解説
そして、岩屋古墳の北北西約1kmの場所には龍角寺跡がある。この寺院は、東日本最古(創建は640年代から7世紀の第3四半期頃と推定)の寺院として知られる。調査によると山田寺式の瓦が葺かれ、三重塔と金堂が東西に並んだ法起寺式の伽藍配置だったことがわかっており、同地の有力者がヤマト王権の豪族と結び仏教を広めようとしたのではないかと考えられている。また、寺院の北西には、龍角寺の瓦を生産した窯跡があり、「加刀利」などの文字が書かれた瓦が出土している。その文字瓦には「朝布」「赤加賀」「玉作」などの文字や絵模様が描かれた1800点程の種類がある。このことは、7世紀代の文字資料が少ないこともあり、旧来の「遅れた東国」というイメージが強かったが、関東での文字の使用が奈良時代以前に遡ることを証明する貴重な資料のひとつと言われている。 大化の改新後、捄国は畿内に近い方が上総国、遠い方が下総国となり、さらに養老2年(718年)に上総国から安房国が分離し三国となった。なお、一時、安房国は再び上総国に編入されたが、天平宝字元年(757年)に再び分割された。地理的には北から順に下総、上総、安房となっているが、これは当時、東海道の正式なルートが相模国から安房国へ渡る舟を経由するのが主流であり、上総の方が畿内に近いとされていたためで、『日本書紀』には日本武尊の武勇伝でも上総国に上陸する場面が見られる。日本国内にあった68の各国は、国力等の政治・経済上の基準で大国(たいごく)から下国(げこく)の4等級に区分されていたが、上総国、下総国とも大国、安房国は中国と『延喜式』には記されている。また、上総国は大国の中でも親王が国司を務める3つの親王任国のひとつとなっており、平高望、良兼や菅原孝標がそうであったように、国府の実質的長官は上総介が握っていた。 安房・上総・下総の各国には、駅(駅家)が設置され、駅馬と伝馬が配備されていた。この三国が属した東海道は中路 とされた。安房国には駅馬 が白浜・川上各5頭が配備、上総国には駅馬が大前・藤潴(ふじぬま)・島穴・天羽の各郡に5頭、伝馬 は海上・望陀・周淮・天羽の各郡に5頭、下総国には駅馬が井上10頭、浮嶋・河輪各5頭、茜津・於賦(おう)各10頭、伝馬が葛飾郡10頭、千葉・相馬の各郡5頭が配備されていた(『延喜式』)。 大宝元年(701年)には、国には国司が政務をとる国庁と国府が設置された。上総国の国府は市原市、下総の国府は市川市国府台の地に、安房国府は安房郡三芳村府中に置かれた。安房国府の遺構は見つかっていない。郡には郡家が設置された。上総国海上郡家が市原市西野遺跡、下総国埴生郡家が栄町大原遺跡など発見されているが、その他の郡家跡は明確でない。また、田祖・正税を納める倉庫である郡家の正倉は、我孫子市日秀西遺跡が下総国相馬郡のものと想定されている。他方、国分寺(金光明四天王寺護国之寺)・国分尼寺(法華滅罪之寺)については、上総は市原市、下総は市川市国分に所在し、安房はまだ不明である。 東国の武士の勇猛さは知れ渡っており、九州筑紫の防衛をする防人に東国出身の兵士が、充てられた。その上総・下総国出身の防人の歌が『万葉集』巻20に出ている。防人は難波津に集結し、海路で筑紫に向かった。難波までは食料自弁であった。筑紫では空き地が与えられ稲や雑穀を栽培し食料とした。 平安時代中期、都では、藤原氏が隆盛に向かう頃、県域では、中央から派遣された国司などの(任期期間が過ぎた)役人が土着し、在地領主や富豪農民などの新興勢力が誕生し始める。特に高望王の子孫である桓武平氏系の氏族が勢いを振るったが、平安時代の平将門、次いで平忠常が反乱を起こし、房総三国は、一時「亡国」と言われるほど荒廃した(この時、朱雀天皇によって、平将門の乱平定のため、僧寛朝が派遣され、祈祷を行なったことが、後の成田山新勝寺の起源となる)。
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