アウンサン
(面田紋次 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/03 17:24 UTC 版)
アウンサン
အောင်ဆန်း
Aung San |
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生年月日 | 1915年2月13日 |
出生地 | ![]() |
没年月日 | 1947年7月19日(32歳没) |
死没地 | ![]() |
出身校 | ラングーン大学 |
称号 | 旭日章、勲一等瑞宝章 |
配偶者 | キンチー |
子女 | アウンサンウー アウンサンリン アウンサンスーチー アウンサンチット |
サイン | ![]() |
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内閣 | バー・モウ内閣 |
在任期間 | 1943年8月1日 - 1945年3月27日 |
アウンサン(ビルマ語: အောင်ဆန်း、ラテン文字転写: Aung San、1915年2月13日 - 1947年7月19日)またはオンサンは、ビルマ・ミャンマーの独立運動家、軍人、政治家。日本名は面田 紋次(おもた もんじ)。日本のメディアでは「アウン・サン将軍」と呼ばれることが多い[1]。
「ビルマ建国の父」として死後も敬愛されており、ミャンマー民主化運動を指導し、国家顧問として実質的な国家指導者の地位にあったアウンサンスーチーは長女。
生涯
生い立ちから学生時代

1915年2月13日、ビルマ中部、現在のマグウェ地方域ナッマウの町に、6人兄弟の末っ子として生まれる。父親のウー・パは農家出身の弁護士、母親はドー・スー。母親の叔父・ウー・ミンヤウンはイギリスに対する最初の抵抗組織を指揮した人物で、斬首刑に処せられている[2]。
当時を知る人によれば、明朗、繊細、正直、弱者への同情心に溢れる愛すべき性格だったのだという。甘えん坊で8歳になるまで学校に行かなかったが、学業は優秀で、15歳で奨学金を取得し、高校入学前の国家試験では全国1位になった。高校時代に政治に目覚め、討論会に参加したり、新聞の編集に携わったりした。とっつきにくく、よく物思いに拭け、変わり者という評判だったのだという[3]。
1933年にラングーン大学に進学し、英文学、近代史、政治学を専攻[注釈 1][4]。容姿や服装に無頓着で、部屋はとっ散らかっていたが、大変な読書家だった。また、引き続き政治へに関心を持ち、下手な英語で英語の弁論大会に出場した(その後、英語は上達)。当時の彼の英雄は、エイブラハム・リンカーンと19世紀のメキシコの民族主義指導者ベニート・フアレスで、エドマンド・バークの議会演説を何時間もかけて暗記したのだという[4]。在学中ラングーン大学の学生自治会(RUSU)の執行委員となり、RUSUの機関誌『オウェイ(Owei、「孔雀の鳴き声」の意)』の編集者にもなった[5]。
1936年2月、彼は機関誌に掲載され問題になった反英的記事『逃げ回る狂犬(Hell Hound Turned Loose)』 の筆者を隠し通したことによりウー・ヌと共に退学させられたが、このことは全学ストライキを引き起こし、大学側は退学を取り消した。1938年にはRUSUと全ビルマ学生連合(ABFSU)の委員長に選出され、ビルマ学生界のリーダーとなった[6][7]。
独立運動
共産主義 |
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1938年10月より学生運動から政治運動へと移り、反英運動を展開する。同年、アウンサンは大学を中退して、われらビルマ人連盟(タキン党)に参加。組織が分裂すると、タキン・コドーフマイン派につき、1938年から1939年にかけての「1300年革命[注釈 2]」の際には、一連のストライキ活動を組織した[8]。
1939年8月15日のビルマ共産党(CPB)が結成された際には、結党メンバーの7人の内の1人となり、書記長に就任。しかし、アウンサンは共産主義にさほどのめりこむことはなく、組織も翌年には自然消滅した。1940年にはタキン党とバー・モウの貧民党が合併して、自由ブロックを設立、アウンサンは書記長に就任。戦争終結後にビルマの独立が保証されない限り、イギリスの戦争に協力しないとするキャンペーンを行った。しかし、イギリス当局はこのキャンペーンを取り締まり、バー・モウや、ウー・ヌなどタキン党のメンバーを大量に逮捕投獄。アウンサンにも逮捕状が出だが、アウンサンは捜査網を逃れ、地下に潜伏した[8]。
30人の同志
1940年8月、アウンサンはタキン・フラミャインとともに、中国共産党との接触を図るべく、中国人苦力に変装して、中国人船ハイリー号(海利号)に乗り込み、ビルマを脱出、8月8日厦門に到着した。しかし、そこで日本軍の諜報員に発見され、2人は東京に連れていかれた。東京ではビルマ工作に携わっていた鈴木敬司大佐に引き合わされ、両者はタキン党が日本軍のビルマ侵攻に協力する代わりに、ビルマの独立を約束することで合意した。アウンサンには「面田紋次[注釈 3]」という日本名も与えられ、日本語を学び、時に着物を着た。アウンサンは、日本人の愛国心や清廉さ、国の発展ぶりに敬意を抱いていたが、鈴木大佐から娼婦を提供された時は、「大佐は自分を堕落させようとしているのではないか?」と疑い、大変困惑したのだという[9]。
また、日本に滞在中、アウンサンは、「ビルマのための青写真」を執筆。枢軸国への共感を明らかにした[10]。
私たちが望むのは、ドイツやイタリアに代表されるような強力な国家統治である。国民は1つ、国家は1つ、政党は1つ、指導者は1人のみである。議会による反対勢力は存在せず、個人主義のナンセンスもあってはならない。すべての人は、個人よりも優位な国家に従わなければならない...行政、司法、財政において、法の支配よりも権威の支配が優先されるべきである。 — アウンサン
1941年2月、南機関が正式に発足。アウンサンは再び中国人に変装して海路でビルマに戻り、のちに「30人の同志」呼ばれる若者たちを募り、当時日本軍の占領下にあった海南島で厳しい軍事訓練を受けた。アウンサンはここでもリーダーシップを発揮し、仲間を統率した。ただ、好色で博打好きなネ・ウィンとは反りが合わず、事あるごとに喧嘩になっていたのだという[11]。
日本軍との共闘
太平洋戦争開戦後の1941年12月28日、アウンサンら30人の同志が中心となって、バンコクでビルマ独立義勇軍(BIA)創設された。結成の際、メンバーは、過去のビルマの貴族の儀式に則り、指を切り、血を注ぎ、忠誠の誓いを立てた。この際、メンバーには戦闘名が与えられ、アウンサンは「テーザ(火)」と名乗ったが、定着しなかった[12]。
1942年1月4日、日本軍はビルマに侵攻開始。3月8日、首都ラングーンを占領し、7月にはビルマからイギリス軍を駆逐した。BIAがラングーンに凱旋した際、市民からは熱狂的に歓迎されたが、BIAの役割は日本軍の補助にすぎなかった[12]。また、戦闘が始まったばかりの1942年初頭、アウンサンはモーラミャイン近郊の村でイギリス軍と通謀していたムスリムの村長を公衆の面前で処刑するという事件を起こした。アウンサンは村長を刀で斬りつけたが、とどめを刺すことができず、最後は部下にやらせたのだという[13]。

ラングーンに戻った後、アウンサンは戦いに傷を癒やすためにラングーン総合病院に入院した。しかし、今や国民的英雄となったアウンサンを怖がって、新参の看護婦たちは近寄ろうとせず、代わりにベテラン看護婦のキンチーが介護に当たった。内気な性格のアウンサンはそれまで女性には無縁だったが、献身的に介護に当たるキンチーにすっかり魅せられた。やがて2人の間に愛が芽生え、1942年9月6日、2人は結婚した[14]。
1943年8月1日、ビルマ国が樹立され、バー・モウが「Naingandaw Adipadi(ビルマ語で国家元首を意味する一般名詞)」に就任し、アウンサンは国防大臣に就任した。当初、日本軍はアウンサンを最高指導者に考えていたが、容姿もスタイルも魅力的ではなかったため、バー・モウを選んだのだという[15]。しかし、ビルマ国は日本の傀儡政権であり、そのことにすぐに気づいたアウンサンらは、密かに抗日闘争の準備を進めていった[12]。
抗日闘争
インパール作戦の失敗により日本軍の劣勢が決定的となった1944年8月、アウンサンらは抗日闘争に勝機ありと見て、反ファシスト機構(Anti-Fascist Organization:AFO)を結成した。当初、アウンサンは抗日蜂起に慎重だったが、テインペーらAFPFLのCPBメンバーが着実に連合軍との関係を構築するにつれ、準備を加速させていった[16]。
そして、1945年3月27日(現在国軍記念日となっている)アウンサンは日本軍への全面攻撃を開始、同年5月1日、ラングーンを解放し、6月15日には対日勝利を宣言、ラングーンで戦勝パレードが行われた。同年8月、AFOは反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)に改名した[17]。
それに先立つ5月16日、アウンサンは、日本の軍服・軍刀姿で、ビルマにおけるイギリス軍最高司令官ウィリアム・スリム将軍を訪問。自分はAFOが設立したビルマ臨時政府国防大臣であり、日本軍を放逐した後はビルマは独立する意思であることを告げた。驚いたスリムが、まずはAFOの軍隊を連合国軍の指揮下に入れることを提案すると、アウンサンは了承した。スリムが「ここに来て、このような態度を取るのは、かなりのリスクを負っていると思わないか?」と尋ねると、アウンサンは「いいえ」と答え、「なぜ?」と問われると「あなたがイギリス軍将校だからです」と答えた。このアウンサンの態度に、スリムは大変な感銘を受け、新しいビルマのリーダーの誕生を深く印象付けたのだという[18]。
独立闘争
イギリス帰還後、アウンサンは軍隊を去り、政治に専念した。1945年5月17日、イギリス政府は『ビルマ白書』を発表し、戦後の対ミャンマー政策を明らかにした[19]。しかし、その内容はアウンサンらが満足するようなものではなく、あくまでも完全独立を要求した。1946年3月には、行政参事会のメンバーで、タキン党でアウンサンと対立していたタキン・トゥンオウが、戦中にアウンサンがムスリムの村長を処刑した事実を告発。イギリス当局は、この件でアウンサンを逮捕しようと試みたが、結局、断念した[20]。
1946年9月、行政参事会副議長に任命され、国防と外務を担当した。この際、アウンサンは国民に向けて声明を発表し、「私は神でもなければ、魔法使いでも手品師でもありません...私たちが求めている独立と公共の福祉を達成するために...国民のみなさんも地面にしっかり足をつけてくれることを、もう一度お願いしたいのです」と述べた[21]。
アウンサンの敵はイギリス当局だけではなく、内部にもあり、あくまでも武力による独立を目指すCPBや、ウー・ソオなどの戦前政治家やタキン党の対立派閥に属していた人々が、事あるごとにアウンサンを妨害した。アウンサンは、個人的に親密だったイギリス提督レジナルド・ドーマン=スミスに、「私は(国民的英雄に)なりたかったわけではない」「ただ祖国を解放したかっただけだ。だが、今はとても孤独だ」「国民的英雄はどれくらい長く生きられるというのか?この国では長くは続かない。敵が多すぎる……私はあと18か月以上は生きられないと思う」と涙を流して語ったのだという[22]。
1947年1月27日、英国首相クレメント・アトリーとの間でアウンサン=アトリー協定が結ばれ、「管区ビルマと辺境地域を統合した1年以内のビルマの独立」が確認された。2月27日には国内各少数民族代表たちとの間で「パンロン合意[23]」結び、全ミャンマーが1つの連邦国家として独立することについて各代表の快諾を得た。そして、同年4月に実施され、制憲議会選挙で、AFPFLは182議席中171議席を獲得して大勝した。ちなみに同年5月に開催されたの憲法草案審議予備会議で、アウンサンは、ミャンマーの経済政策について「林業、鉱業、電力、鉄道、航空、郵便、電信、電話、放送、外国貿易を国有化し、地主制度を廃止する。その他の生産手段は、できる限り共同組合所有とする」と述べており、当時のアウンサンの国家構想は、社会主義色が濃厚だった[24][21]。
ついに独立を達成したが、アウンサンは疲労困憊しており、1947年2月10日にヤンゴンのアメリカ総領事館でアウンサンに会ったアール・L・パッカーによると、「非常に疲れていて、あまり話が通じない」様子だったという[25]。また、周囲には「独立したら、政治から離れて、家族との生活や著作に専念したい」とこぼしていたとも伝えられる[21]。
暗殺

暗殺事件
1947年7月19日午前、アウンサンら行政参事会のメンバーは旧ビルマ政庁で会議をしていた。そして、午前10時半頃、小雨降る中、一台の軍用ジープが建物の正面玄関から中庭に突入した。建物を警備していた歩哨は、なぜかジープの侵入を止めなかった。ジープから飛び出した軍服姿の4人の男のうち、3人はトミーガン、1人はステンガンを手にして階段を駆け上がり、教育大臣でムスリムのアブドゥル・ラザクのボディガードだったコー・トゥエを銃殺した後、会議室に突入。ドアが開いた瞬間、立ち上がったアウンサンの胸に目がけて一斉射撃し、その後、アウンサンの左右に向けて銃を乱射した。銃撃時間はわずが30秒だった[26][27]。
亡くなったのはアウンサン、コー・トゥエの他、アブドゥル・ラザク、AFPFLナンバー2だったタキン・ミャ[28]、情報大臣のバ・チョー、商業大臣でアウンサンの兄・バ・ウィン、産業労働大臣でカレン族の指導者・マウン・バカイン、山岳地帯大臣で、パンロン協定に署名したシャン族の指導者・サオ・サントゥン、運輸副大臣のオウンマウンの計8人。生き残ったのは3人だけだった[29]。
犯人

ウー・ソオが事件から5時間以内に暗殺を首謀した容疑で逮捕された[30]。暗殺事件の数か月前、ウー・ソオは車で帰宅途中に銃撃に遭い、目を負傷したが、その際、ジャーナリストの・ウー・タウンに「私は敬虔な仏教徒として常に自分の敵を許している...しかし目を怪我した時は突き刺すような痛みだった。あいつらだけは許せない。あまりの痛さで許せなくなったよ」と述べた。アウンサンもウー・ソオを見舞ったが、ウー・ソオは銃撃をアウンサンとAFPFLの仕業だと信じて疑っていなかったのだという[31][32]。
ウー・ソオの自宅からは大量の兵器が発見され、銃撃後、暗殺者たちはジープでウー・ソオの自宅へ行き、服を着替えたという。ウー・ソオ単独犯説は当時から懐疑的な見方が多く、裁判でウー・ソオは、自宅で発見された兵器はAFPFLまたはアウンサンの私兵組織・人民義勇軍(PVO)の兵士によって仕掛けられたものと主張した。また、イギリス当局は赤旗共産党およびバー・モウの関与を示唆した。逮捕された容疑者は計800人以上に上った[33]。
1947年12月30日、独立の5日前、ウー・ソオと他の9人の被告は死刑の宣告を受けた。そのうち3人はのちに終身刑に減刑されたが、ウー・ソオと他の5人は5月8日に絞首刑に処せられた。ウー・ソオは午前5時33分に絞首刑に処されたが、死刑執行直前に仏壇の前で祈りを捧げ、「判事や刑務所長に恨みはない」と述べた[34]。
イギリスの関与
裁判中、イギリス陸軍のデヴィッド・ビビアン(David Vivian)大尉がウー・ソオに兵器を売却していたことが発覚して逮捕され、懲役5年の刑を受けた。ウー・ヌは、この事実が国民の怒りを買い、独立が頓挫することを恐れて、公表しなかった。その後、ビビアン大尉はインセインの戦いの最中、1949年2月2日、カレン民族防衛機構(KNDO)によってインセイン刑務所から解放され、KNDOに加わった[33]。
その後、イギリスの調査により、事件前の6月と7月、イギリスの管理下にあった陸軍の兵器庫の兵器がウー・ソオの部下の手に渡り、ウー・ソオが、ビルマ電気製造会社(Burma Electrical Manufacturing Enterprise)第一工場のC.H.H.ヤング少佐とランス・デイン(Lance Dane)少佐の2人に、直接金銭を支払っていたことが明らかになった。別のイギリス軍将校は、ウー・ソオ自身が兵器を盗んだことを認めたと上司に報告していたが、この報告書を読んだ上級将校は警察に通報しなかった。ただし、当時兵器の密売は広く行われていたので、必ずしもこれがアウンサン暗殺事件にイギリスが関与していたことを示唆するものではないとする見解もある[35][26]。
家族
1942年にアウンサンはキンチーと結婚した。キンチーの姉妹は同じ頃、ビルマ共産党の指導者の1人タキン・タントゥンと結婚している。アウンサンはキンチーとの間に2男2女をもうけた。長女アウンサンスーチーはビルマの民主化指導者として世界的に評価されている。長男アウンサンウーはアメリカ合衆国で技術者となっており、妹の政治活動には反対している。次男アウンサンリンは8歳の時に自宅で溺死した。次女アウンサンチットは生後間もない1946年9月26日に夭折している。キンチーは駐インド大使などを務めた後、1988年12月27日に没した[36]。
ラングーン事件
1983年10月9日、アウンサン廟(アウンサンら暗殺された独立運動指導者を祀った霊廟)へ献花に訪れた韓国の全斗煥大統領を狙って、北朝鮮がラングーン爆弾テロ事件を起こした。全斗煥は一命を取りとめたものの、両国関係者に多数の死者が出た。建国の父の墓所をテロに利用されたビルマは北朝鮮と国交を断絶した。両国の国交が回復したのは、24年後の2007年であった。アウンサン廟は事件後は1985年に当時のビルマの最高指導者であるネ・ウィンによって再建されるも[37][38]、しばらくは政府による厳重警備がされて閉鎖されていたが、事件から30年目の2013年6月1日に一般公開が再開された[39]。
逸話
手紙
アウンサンは女性と関わるのが苦手であった。三十人の志士の軍事訓練で日本に立ち寄った際、箱根にある岩崎与八郎の建てた別荘に滞在した。その時岩崎の姪である英子(18歳)に一目惚れし、南機関の鈴木敬司にけしかけられたこともありアウンサンは彼女に日本語でラブレターを書いた。
愛しい英子さん 私は遙か海を隔てた遠い異国から日本へやって参りました。貴女を愛しく思う気持ちをどうしても打ち消すことが出来ません。この私のことを、どうかお待ち頂けないでしょうか? 面田紋次[40] |
しかし、この手紙が英子の元に届くことはなかった。
日本刀
第二次世界大戦後、アウンサンは日本軍司令官が所持していたと思われる高橋貞次作の日本刀を入手した。この刀は後にアウンサンスーチーに遺品として引き継がれたが次第に劣化。2021年には日本財団を通じて備前おさふね刀剣の里に持ち込まれ、錆落としなどの修復が行われた。修復は2021年11月に終了したが、刀が日本に渡ってきた直後に発生したクーデターでスーチーが拘束されている影響で、スーチーへの引き渡しができない状態が続いている[41]。
ハウス・オブ・メモリーズ
ラングーンにあったアウンサンのオフィスは「ハウスオブメモリーズ」という名のレストランになっている[42]。
栄誉


ミャンマーでの栄誉
- 命日の7月19日は「殉難者の日」とされ、毎年追悼式が催されている[43]。
- 最高勲章の1つとして「アウンサンの旗」勲章がある。1981年1月4日には、鈴木敬司の未亡人、高橋八郎、杉井満、川島威伸、泉谷達郎、赤井(旧姓鈴木)八郎、水谷伊那雄の南機関関係者7人にこの勲章が授与されている[44]。
- イギリスの支配回復後、アウンサン一家が最初に住んだヤンゴンの家はボージョーアウンサン博物館となっている。
- ミャンマーの紙幣にはアウンサンの肖像が度々採用されている。1990年に新たに発行された1チャット札は物議を醸した。この紙幣に描かれたアウンサンは、以前のものよりも目、鼻、口、そして顎の線が柔らかく、どことなくスーチーによく似ていた。そして、花弁には、8888民主化運動の際の大規模ストライキの日付、8888(1988年8月8日)が入っていた。民主派シンパのデザイナーの仕業だったが、これに気づいた国軍は、すぐに紙幣を発行停止にし、以後、NLD政権下の2020年まで、アウンサンが紙幣に登場することはなかった[45]。
外国勲章
脚注
注釈
- ^ 独立の父アウンサン、ビルマ共産党議長タキン・タントゥン、独立後の議会制民主主義時代の大半首相を務めたウー・ヌ、国連事務総長となったウ・タント、そして国軍総司令官・革命評議会議長・ビルマ社会主義計画党議長ネ・ウィンなど、独立闘争で活躍した人々、その後議会制民主主義時代に国軍将校、政府の大臣、野党政治家、反政府武装勢力のリーダーになった者のほとんどが、同時期にヤンゴン大学に在籍していた。当時のミャンマー人最高レベルのエリートは学費の高い寄宿学校からヤンゴン大学に進み、弁護士、判事、大学教師、公務員になった。しかし、アウンサンらは成功した商店主・経営者などアッパーミドルクラスの家庭出身だった。タンミンウーは、「ビルマの政治は1920年代、30年代に育った一握りの男性によって独占されていた...20世紀のビルマの歴史は、太平洋戦争前の暗黒時代に、友人同士であったり、少なくとも同時期に大学に通っていたりする男性グループ(そしてごく少数の女性)の歴史として語ることができる」と評している。
- ^ ビルマ暦に基く。ビルマ暦の元年は西暦638年。この間、ビルマ中部のチャウとイェーナンジャウンで油田労働者たちによるストライキ、ヤンゴンで農業改革を要求する農民デモ、アウンチョー(Aung Kyaw)というヤンゴン大学の学生がイギリス騎馬警察に撲殺された学生デモ、反インド暴動、マンダレーのデモなどが頻発した。
- ^ 面田は緬甸から取ったもので、紋次の紋はテインモン (テインマウン)のモンから取った。
出典
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参考文献
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- ウ・タウン『将軍と新聞: ビルマ長期軍事政権に抗して』新評論、1996年。 ISBN 978-4794803177。
- 『読売新聞』1997年8月26日東京朝刊
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- Lintner, Bertil (1999). Burma in Revolt: Opium and Insurgency since 1948. Silkworm Books. ISBN 978-9747100785
- Thant Myint-U (2008). The River of Lost Footsteps. Faber & Faber. ISBN 978-0571217595
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関連項目
外部リンク
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