開発までの背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 10:22 UTC 版)
メーカーは、東ドイツ時代にカール=マルクス=シュタット県(現在のザクセン州)にあったツヴィッカウに所在した、東ドイツ国営企業のVEBザクセンリンク (VEB Sachsenring Automobilwerke Zwickau) である。第二次世界大戦前のドイツを代表する民族系自動車メーカーアウトウニオンの旧工場のうち、高級車ホルヒの生産拠点で、第二次世界大戦後、東ドイツ地域に含まれたツヴィッカウ工場がその前身であった。 アウトウニオンは元々ドイツの民族系自動車メーカー4社が、外資対抗のため1932年に大合同して成立したメーカーである。オートバイ及び廉価な大衆車をDKW、上級小型車をヴァンダラー、中型車をアウディ、大型高級車をホルヒという形で分担した。 このうち1904年創業のDKWは、第一次世界大戦後に自転車補助動力用の2ストロークエンジンを開発して以来、1920年代にはオートバイメーカーとして急成長、1928年からは2ストロークエンジン搭載の小型乗用車生産にも進出して、アウトウニオン結成の中核ともなった企業である。DKWは1931年に、大衆車としては史上初の量産型前輪駆動車である500 cc車「DKW・F1(ドイツ語版)」を発表、以来前輪駆動方式を得意とし、同じアウトウニオン系のアウディにも前輪駆動を導入するなどの進歩性を見せていた。 VEBザクセンリンクは、接収したホルヒ工場を引き継いでVEB HORCH Kfz- und Motorenwerke Zwickauとして発足した1948年以来、戦前形DKW・F8(ドイツ語版)の同型車(IFA・F8(ドイツ語版))および第二次大戦直前の試作車であったDKW・F9(ドイツ語版)をベースにした900ccクラスの2ストローク前輪駆動車(IFA・F9(ドイツ語版))を製造していた。またトラクターや大型ディーゼルトラック生産も手がけたほか、西側で復活しなかった「ホルヒ」のネームを復活させて2.4リッター6気筒の上級セダン、ホルヒ・P240ザクセンリンク(ドイツ語版)を1956年から生産開始した(P240は1957年以降「ザクセンリンクP240」となり、1959年まで1382台が生産されたが、ソ連からの政治的圧力により製造を中止した)。公社名称からは1957年に「ホルヒ」が外され、VEB Sachsenring Kfz- und Motorenwerk Zwickauとなっている。 しかし1956年以降、900ccクラスのモデルについてはBMWアイゼナハ工場の後身であるアイゼナハー・モトーレンヴェルクが生産することになり、1957年にモデルチェンジでアイゼナハから3気筒900cc車のヴァルトブルク・311(英語版)が登場した。 ヴァルトブルクより小さい、戦前のDKW系ベーシックカーのリバイバルともいうべきクラスで企画されたのがトラバントであった。その直接の前身となったのは、1955年より旧アウトウニオン・アウディ工場の後身であったVEBツヴィッカウ(ドイツ語版)で生産が始まったAWZ・P70(ドイツ語版)である。P70は戦前型の旧弊としたデザインであったIFA・F8をベースに、外装をより近代的なデザインに改め、鋼板が慢性的に不足していた東ドイツの事情を鑑みてFRPボディを全面採用したモデルであった。 VEBツヴィッカウと、ホルヒ系のVEBザクセンリンクは1958年5月に合併され、VEB Sachsenring Automobilwerke Zwickauに改称した。この再編に伴い、ディーゼルトラック等大型車の生産は、近傍のヴェルダウにあったVEBエルンスト・グループ自動車工場(ドイツ語版)に移管された。 トラバント量産以前の東ドイツ製乗用車 IFA F8 IFA F9 AWZ P70 ザクセンリンクP240
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