金色堂堂内諸像及天蓋とは? わかりやすく解説

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金色堂堂内諸像及天蓋

主名称: 金色堂堂内諸像及天蓋
指定番号 126
枝番 0
指定年月日 2004.06.08(平成16.06.08)
国宝重文区分 国宝
部門種別 彫刻
ト書
員数
時代区分 平安
年代
検索年代
解説文:  中尊寺金色堂堂内壇上安置される諸像と各壇中尊上に吊される天蓋である。天治元年一一二四)八月二十日建立の旨を記す棟木によれば金色堂藤原清衡【きよひら】とその正室一族により建立された。清衡(大治三年一一二八〉没)の遺骸納められた中壇上には阿弥陀三尊六地蔵二天王各像が安置され次いで二代基衡【もとひら】(保元二年〈一一五七〉ころ没)、三代秀衡【ひでひら】(文治三年一一八七〉没)の各遺骸両脇左右壇に納められその上に同じ構成の諸像が置かれた。その後、堂の朽損伴って諸像の安置位置錯綜生じ、さらに元文三年一七三八)から一〇年余前に阿弥陀像が盗まれるという事態も出来している。この阿弥陀像が中壇安置のものだったと記す文献があるが、すでに安置位置混乱があったのだから、現中壇阿弥陀像が盗難後に他から移されたものと解する要はない。
 左右壇どちらが基衡・秀衡の各所用かという問題とともに、諸像の本来の安置壇がどれかという議論古くからあったが、近年の調査研究により構造の詳細がいっそうよく把握されるようになったことに伴い作風分類検討をも踏まえてより妥当な推論行い得る段階になった。すなわち、法量小さく印相も違う右壇阿弥陀像は他からの移入考えられるので、それを除く三一体について観察すると、材質ヒノキヒバカツラ三種とみられ、構造では割矧造寄木造両様があるが細部異同多少ある。そのなかで、中壇阿弥陀像が頭体正中左右二材矧ぎ、左壇六地蔵像のうち一体がやはり左右二材矧ぎで残る五体頭部左右に矧ぐという類似があり、また左壇阿弥陀像、右壇両脇侍像、中央六地蔵像のうち三体中央二天王像がいずれもカツラ材という共通性がある。これに内刳り仕方、雇衲の使用法作風違いなどを考慮して三壇設立年代差に対応させながら分類することも可能ではあるが、銘記等の確実な根拠がないのでより細かな同定はなお課題でもある。
 現時点作風分類行えば次のようになろう。中壇阿弥陀三尊像丸顔ほどよい肉付けで、一二世紀前半中央の円派仏師による作風反映がある。これを基準にすれば、左壇二天王像のゆったりとした構えは共通のものがあり、また正中矧ぎ構造を含む左壇六地蔵像は、面相にやや角張った感じのものがあるが相近いともいえよう一方、左壇阿弥陀像の細面の顔は右壇両脇侍像と軌を一にし、中壇六地蔵像の小振り丸顔同趣いえよう。中壇二天王像は同様に頭部小さく細身像容で、体を大きく捻るという動勢が基衡没時ころにあったかという疑問呈されるが、永暦元年一一六〇)ころの作との説のある福島願成寺白水阿弥陀堂二天王像に似ていることからすればこれも同じ壇安置だった可能性はある。残る左壇両脇侍像、右壇六地蔵像、右壇二天王像の太り気味の体格平安時代最末期様相を示すともいえる。
 天蓋は中壇所用のものは総体透彫とし、左右壇所用のものは主要部浮彫(右壇分の一部透彫)、吹返し透彫(左壇分は後補)とする相違変化は、時代推移に伴うことをうかがわせる
 当時京都行われていた貴顕の葬堂に倣ったとみられる金色堂安置の諸像は、ほぼ三〇年おきとなる三代各没時の様式変遷をよく示すが、そのような彫刻史的意義さることながら中央様式比較直接的な影響とともに在地独自の作風加えて平安時代後期における地方文化あり方の一典型示している。右壇阿弥陀像は盗難遭った像の代わりに置かれたものと推測されるので、別保存されている堂内諸像所用光背台座残片とともに附【つけたり】とする。



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