野生種の採集から栽培へとは? わかりやすく解説

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野生種の採集から栽培へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 05:55 UTC 版)

ハスカップ」の記事における「野生種の採集から栽培へ」の解説

入植した和人にもハスカップ身近な存在となると趣味の園芸一環として、庭への移植、あるいは挿し木による増殖行われるようになったが、栽培始まりとしては1953年昭和28年)に勇払川上流から自生移植したのが最初とされている。 栽培本格化する契機となったのは勇払原野周辺地域の開発により自生域が大幅に縮小したことである。 1970年昭和45年)に第3期北海道総合開発計画閣議決定され、それに基づく苫小牧東部大規模工業基地開発基本計画により勇払原野自生地開発対象となった。これに対し苫小牧市では市民団体からハスカップ保護要望寄せられ苫小牧市では1973年昭和48年3月に「ハスカップ移植協議会」を設立したまた、開発手掛ける第三セクター苫小牧東部開発当時)では、同年から1980年昭和55年)にかけ自生地からのハスカップ搬出移植手掛け、約37,000本が道内各地個人・団体引き取られた。また、前述菓子会社三星でも野生株からの調達が困難となり、1975年昭和50年)ごろから美唄市北海道立林業試験場(現:北海道立総合研究機構道総研森林研究本部林業試験場 以下、道林試)の協力得て勇払原野野生種から苗木作り1977年昭和52年)に美唄市内で栽培始めることとなった千歳市でも1960年代には篤農家栽培始めていたとされ、1978年昭和48年)ごろから千歳市農業協同組合(現:道央農業協同組合)が、減反政策に伴う水田転換作物としてハスカップ栽培奨励し千歳空港航空自衛隊千歳基地陸上自衛隊北海道大演習場周辺から移植して栽培始まった。このほか、1982年昭和57年)頃には厚真町でも栽培始まっている。 以降ハスカップ稀少価値があり単価の高い作物(約3,000 - 4,000円 / kgであったことから、水稲からの転換作物として道央・道北・道東に栽培広がり初期1980年昭和55年)の時点栽培面積13 haであったが、1990年平成2年)には167 ha達した一方で生産面積拡大需給バランスの崩壊招き取引単価は1,000円 / kg程度まで抑制された。これに加え水田からの転作圃場中心に害虫ナガチャコガネによる根部食害広まり有効な対策がなかったことから生産者意欲削ぐこととなり、生産量徐々に減少した加えて1993年平成5年)の大冷害を受けた政府減反緩和策により栽培地水田への復旧増えたこともあって、1994年平成6年)の栽培面積は 108ha にまで減少したその後1998年平成10年)頃などにもブーム起き飽きられてまた価格が下がるといった事象繰り返され2003年平成15年)には栽培面積全盛期半分以下の 60haまで縮小したその後需要拡大もあって栽培面積回復し2018年平成30年)産の国内におけるハスカップは、生産面積109.2 ha収穫量107.7トン回復している。このうち生産面積最大なのは厚真町で、栽培面積33 ha達し従事する農家100戸を超える

※この「野生種の採集から栽培へ」の解説は、「ハスカップ」の解説の一部です。
「野生種の採集から栽培へ」を含む「ハスカップ」の記事については、「ハスカップ」の概要を参照ください。

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