酒田本間氏とは? わかりやすく解説

酒田本間氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/29 05:31 UTC 版)

本間氏」の記事における「酒田本間氏」の解説

本間氏(ほんまし)は佐渡本間氏分家で、山形県酒田市中心に農地解放による解体まで日本最大地主称され大庄屋豪商。その財力基礎に、「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と謳われるほどの栄華誇った。 酒田本間氏については「本間家本邸」のように、本間氏(ほんまし)ではなく本間家(ほんまけ)と通称される。 佐渡本間氏一族には、上杉氏転封の折に山形移った者もいた。1689年元禄2年)、現在の酒田市本町に「新潟屋」の暖簾掲げ商売始めた酒田三十六人衆一人武士であったといわれる本間右衛門息子あるいは番頭といわれる原光を初代とし、3代当主である本間光丘は、士分取り立てを受け庄内藩財政再建取り組んだほか、砂防林植林進めた。さらに宝暦大飢饉多く農民餓死したことを教訓に、豊作の際には米を庄内藩米倉貯蔵し飢饉の際には米を放出する「八ヵ年計画による備蓄計画」を起案し藩に提出。この計画昭和20年頃まで維持された。またローソク足考案した宗久など多く逸材輩出した。このほか金融業にも進出大名貸では東北多く大名家から借入申し込みを受けその要請応えた。そしてそこから得た利益元手土地購入田地拡大していった。さらには北前船交易隆盛もあり三井家住友家劣らぬ大商となった戊辰戦争の際には佐幕派庄内藩のため巨費献じたほか、明治維新後には政府から多額賠償金の支払い求められた。その後引き続き日本最大級大地主ではあったものの、起業興業にはあまり執心せず財閥化することなく、一地方企業家にとどまったしかしながら防風林および灌漑事業整備大い貢献し酒田近代化尽力また、6代光美、7代光輝によって旧亀ヶ崎城(現:酒田東高校)の東側田んぼ整備され試験場である本間農場では、乾田馬耕など小作人対す農業指導行い庄内米の価値向上に繋げたほか、農民小作人には保護政策を執っていた。加えて根室柳田藤吉支えた第二次世界大戦後GHQによる農地改革実施に伴い1750ヘクタールあった農地はただ同然売り渡され、本間家には4ヘクタールのみが残存した。 1990年平成2年)、本間家商事部門であった本間物産倒産その後本間物産カウボーイ傘下での再建経て秋田県仙北市本社を置く伏見屋からの買収によって、子会社化された。なお、不動産関連本立信成として今日現存する本間ゴルフ創業者は、酒田本間氏庶流にあたる。

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