酒田本間氏
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本間氏(ほんまし)は佐渡本間氏の分家で、山形県酒田市を中心に農地解放による解体まで日本最大の地主と称された大庄屋・豪商。その財力を基礎に、「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と謳われるほどの栄華を誇った。 酒田本間氏については「本間家旧本邸」のように、本間氏(ほんまし)ではなく本間家(ほんまけ)と通称される。 佐渡本間氏の一族には、上杉氏転封の折に山形へ移った者もいた。1689年(元禄2年)、現在の酒田市本町に「新潟屋」の暖簾を掲げ商売を始めた酒田三十六人衆の一人で武士であったといわれる本間久右衛門の息子あるいは番頭といわれる原光を初代とし、3代当主である本間光丘は、士分の取り立てを受け庄内藩の財政再建に取り組んだほか、砂防林の植林を進めた。さらに宝暦の大飢饉で多くの農民が餓死したことを教訓に、豊作の際には米を庄内藩の米倉に貯蔵し、飢饉の際には米を放出する「八ヵ年計画による備蓄計画」を起案し藩に提出。この計画は昭和20年頃まで維持された。またローソク足を考案した宗久など多くの逸材を輩出した。このほか金融業にも進出。大名貸では東北の多くの大名家から借入の申し込みを受けその要請に応えた。そしてそこから得た利益を元手に土地を購入。田地を拡大していった。さらには北前船交易の隆盛もあり三井家・住友家に劣らぬ大商家となった。 戊辰戦争の際には佐幕派の庄内藩のため巨費を献じたほか、明治維新後には政府から多額の賠償金の支払いを求められた。その後も引き続き日本最大級の大地主ではあったものの、起業・興業にはあまり執心せず財閥化することなく、一地方企業家にとどまった。しかしながら、防風林および灌漑事業整備に大いに貢献し、酒田の近代化に尽力。また、6代光美、7代光輝によって旧亀ヶ崎城(現:酒田東高校)の東側の田んぼに整備された試験場である本間農場では、乾田馬耕など小作人に対する農業指導を行い、庄内米の価値向上に繋げたほか、農民や小作人には保護政策を執っていた。加えて、根室の柳田藤吉も支えた。 第二次世界大戦後のGHQによる農地改革の実施に伴い、1750ヘクタールあった農地はただ同然で売り渡され、本間家には4ヘクタールのみが残存した。 1990年(平成2年)、本間家の商事部門等であった本間物産は倒産。その後、本間物産はカウボーイ傘下での再建を経て、秋田県仙北市に本社を置く伏見屋からの買収によって、子会社化された。なお、不動産関連は本立信成として今日も現存する。 本間ゴルフ創業者は、酒田本間氏庶流にあたる。
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