避難生活と集落移転
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/26 16:38 UTC 版)
「桜島の大正大噴火」の記事における「避難生活と集落移転」の解説
噴火前から避難を始めていた桜島島民たちは、当初は避難先にあった寺院、学校、公的施設を間借りする形で避難生活をしていたが、まもなく罹災民収容所という仮設住宅が建設され、そこで避難生活を送るようになった。この罹災民収容所は基本90日間の運営として、食費の支援なども行ったものの、短期的な食住の支援の後は自力での生活再建が求められた。 1914年6月、大正大噴火の被害対応の円滑化を図るため、内務大臣、大蔵大臣、文部大臣管轄の地方自治に関する権限を鹿児島県知事に一時的に委譲する勅令が発令された。その結果、県知事は権限的にも予算的にも比較的自由な裁量が認められた。復興対策として大学、地質調査所、農事試験場などの研究者を動員して、降灰によって深刻なダメージを受けた農地の復興などに取り組んだ。また皇室からは御下賜金が被災者に給付され、日本赤十字社、恩賜財団済生会、商工会議所、各新聞社などは義援金を集めて被災者に分配した。 溶岩に埋もれる、降灰が激しく生活困難になる等によって故郷を失った人々のために、噴火直後から鹿児島県は被災者たちの移住先を北海道、台湾、朝鮮まで範囲を広げて問い合わせを進めた。移住先として有力と見なされた鹿児島県、宮崎県の候補地には県職員を派遣して調査を進めた上で、鹿児島県内の大隅半島に5か所、種子島に3か所の計8か所。宮崎県内の霧島山北方に2か所の他、朝鮮に指定移住先が設けられた。被災者たちは一戸当たり宅地として5畝まで、耕地は平均1町7反を、家族構成と土地の状態を勘案して分配された。 指定移住先は国有林などの国有地を無料で鹿児島県に譲渡し、県は被災者たちに無償で貸与して開墾を行い、一定年月を経過した後には無償譲渡するというシステムで運営された。また指定移住先への移住以外に、縁故等を頼っての任意移住もあった。「桜島大正噴火誌」によれば指定移住地への移住世帯は1001世帯、移住人員は6245名であり、うち桜島島民は883世帯、5617名であった。また任意移住世帯は鹿児島県内の他、九州各地や大阪や東京など各地へと移住していき、桜島全島で1130世帯に及び、噴火前の桜島島民の約3分の2が故郷を離れた。 開墾は自力で行っていくこととされたが、着のみ着のままで避難してきた避難者のために、移住地までの旅費、荷物の移送費、小屋掛け料が給付され、家具や農具の支給、耕作開始に必要な種や苗の支給、更に当面の間、食費が支給された。また県の農業技師を巡回させ、開墾による農業開始の技術指導を行った。このように被災者の自立のために相応の対策は行われたものの、実際には開墾は困難を極め、開墾地の多くは飲料水の確保も難しいなど生活は苦労の連続であり、また子どもたちの教育の場の提供も大きな課題となった。そして移住先ではこれまでの住民たちとの軋轢も表面化した。 大正大噴火が沈静化していくと、桜島島内でも噴火による影響が比較的少なかった地域の人々は続々と帰島し、火山灰の除去や噴石の処理など復興活動に従事するようになった。指定移住者や任意移住者の中でも、大正大噴火による溶岩流に埋もれずに復旧が可能であった世帯の人々の多くは桜島に戻った。しかし溶岩に埋もれてしまい戻ることが困難であった人々の多くは移住地で懸命に生活を続け、噴火後20年余りを経た1936年5月、ようやく開墾地の無償譲渡が実現した。
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