避難組
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 04:17 UTC 版)
1945年4月当時ベルリンには、駐独日本大使館があったほか、同盟国ドイツやドイツ軍との連絡、新兵器技術を研修・習得するため多くの民間人技術者や技術将校が所属する陸軍武官事務所、海軍武官事務所があった。またその他に軍需メーカーの関係者、大倉商事や三菱商事などの商社関係者、同盟通信や毎日新聞、朝日新聞などの報道関係者、芸術家、留学生などおよそ400人から500人ほどの日本人が在住していた。これらの民間人の多くは4月に入るとベルリン郊外に避難した。ベルリンの南西80 kmのマールスドルフにある城に120名の日本人が篭城した。このような避難所は他にもベルツィヒなどベルリン郊外に数か所あり、それぞれに大使館関係者が帯同した。 4月13日に、ドイツの航空機体調査を担当している海軍武官事務所の永盛義夫技術中佐、樽谷由吉技術大尉は車でベルリンを離れ、ペーネミュンデ南方のロストックにあるハインケル社の工場で、ジェット機の技術資料を入手し、4月末まで同地に留まった後、中立国スウェーデンへ脱出した。 翌4月14日には、ドイツ外務省とヨアヒム・リッベントロップ外相からの要請を受けて、駐独日本大使の大島浩以下大使館関係者の多くと大使館付武官も自動車11台に分乗してベルリンを離れ、ドレスデンやザルツブルクを経由してバート・ガスタイン(現オーストリア)へ避難した。 5月8日には早くも、日本と交戦しているイギリス軍とアメリカ軍がバート・ガスタインに到着し、大島大使や武官を含む大使館関係者は滞在していたアストリアホテルにおいてアメリカ軍の軟禁下に置かれた。7月1日にはフランス経由でアメリカに送られ、その後百数十人の民間人も同じくアメリカに移送された後11月に日本へ向かった。
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