近代特許制度の発展
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1450年にヴェニスにおいて、潜在的な侵害者たちからの法的な保護を得るためには、新規かつ独創的な装置は共和国に申し出なければならない、との布告を出し、特許はシステマティックに認められるようになった。保護期間は10年であった。これらの保護は主にガラス製造の分野でなされた。ヴェネツィア人は移住すると、彼らの新たな故国で特許による同様の保護を求めた。これが特許制度の他国への拡散につながった。 1555年、アンリ2世は特許に発明の解説書の公開という概念を取り入れた。最初の特許「明細書」は "Usaige & Description de l'holmetre"(一種のレンジファインダー)についての発明者Abel Foullon[訳語疑問点]に対するものであり、その発行はそれに係る特許の存続期間が1561年に終了した後まで延期された。特許はthe monarchy[訳語疑問点]および、「王の館」やパリ高等法院のような他の機関により認められた。その発明の新規性の有無は科学アカデミーが審査した。ダイジェストは1729年から不定期に公表され、その遅れは60年に達した。審査は、その発明の解説書を公表する必要がなく、秘密裡になされた。その発明の現実の使用は公衆への十分な開示とみなされた イングランドの特許制度は、中世に生まれた初期の制度から、発明の創作を刺激するために知的所有権を認める最初の近代の特許制度へと進化した。これは産業革命が現れ興隆することができた非常に重要な法的な基礎であった。 16世紀までに、イングランド国王はいつも好意を持っている人々(またはそのための金を支払う準備ができている人々)に対して独占のために開封特許状を賦与するようになった。『イギリス法釈義』はなぜ「開封特許状」(letters patent、ラテン語:literae patentes、「開いた状態で置かれている証書」の意)がそのように呼ばれるのかについて、読むためにはその封を破らなければならないある特定の人物に宛てられた封緘特許状 (letters close) とは対照的に、それらは、「これらの証書が届くことになっているすべての人々」に宛てられており、封印を破ることなく読まれることができたものである、その書類の下部にその封印が垂らされているからであるとも説明している。 この力は国王が金を工面するため幅広く濫用され、国王はあらゆる種類の日用品(たとえば、塩)に関する特許を賦与した。その結果として、裁判所が特許が賦与される可能性のある状況を制限し始めた。大衆の激しい抗議の後、ジェームズ1世は強制されて、すべての既存の独占を無効にした。また、それらが単に「新規な発明の事業」に使用されることを宣言した。これは専売条例に取り入れられ、国王が発明者たちまたは原発明の紹介者たちに一定の年数の間開封特許状を発行することができるにすぎないよう議会が国王の力を明示的に制限した。同条例は、 開封特許状および裁可がなされている期間においては、他人は使用してはならない当該製品の真実かつ最先の発明者および発明者たちに与えられる本王国内において新規な製品の唯一のあらゆる製造方法または動作方法 を除いてすべての既存の独占および義務の免除を無効にもした。同条例はイングランドその他の国々において特許法における後の発展の基礎となった。 18世紀に、特許法についての司法解釈のゆっくりとした歩みを通じて、同法における重要な発展が出現した。アン女王の代に、特許出願に対し、公衆が利用できるようその発明の動作原理の完全な明細書により補完することが要求された。彼の蒸気機関のためジェームズ・ワットにより取得された特許にまつわる1796年の法廷闘争は、既存の機械の改良に対して特許が付与されうるという原則および具体的に実用化がされているわけではないアイデアや原理も合法的に特許されうるという原則を確立した。 この法制度はアメリカ合衆国、ニュージーランドおよびオーストラリアを含むコモン・ローの流れをくむを有する国々における特許法の基礎となった。13植民地では、発明者たちは定められた植民地議会への請願により特許を得ることができた。北アメリカおける最初の特許は、1641年マサチューセッツ湾植民地総議会(英語版)によりSamuel Winslow[訳語疑問点]のある新しい製塩工程に対して認められた。 18世紀の終わり頃、ジョン・ロックの哲学に影響され、特許の承認は単なる経済特権の獲得というよりむしろ知的所有権の一形式として考えられるようになった。この時期には当時の特許法の負の側面、すなわち、その市場を独占し他の発明者たちの改良を封じるための特許という特権の乱用、も現れてきた。裁判所を通じてリチャード・トレビシックなどの競争相手を追いまわし、同社が保有する特許の有効期限が切れるまで蒸気機関の改良が実現しないようにしたボールトン・アンド・ワット社の振る舞いがこの顕著な一例であった。
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