近代登山発祥の地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 05:08 UTC 版)
江戸時代までの登山は 山を神体山として山頂を訪れる信仰登山(山岳信仰)が多かったが、六甲山にはそのような大きな信仰対象は無かった。しかし山の北側には有馬温泉があり、海岸の漁港から温泉街に新鮮な魚を運ぶための「魚屋道(ととやみち)」が山頂のすぐ横を通っていた。魚屋道の休憩所として山頂近くに「一軒茶屋」があって、現在でも登山者の憩いの場として営業している。 西洋式の登山としては、1874年に、ガウランド、アトキンソン、サトウの三人の外国人パーティが、ピッケルとナーゲルを用いたいわゆる近代登山を日本で初めて六甲山で行った。ガウランドは1881年に槍ヶ岳と前穂高岳に登山して「日本アルプス」を命名した人物で、サトウは富士山に最初に登った外国人としても知られる。 1910年には日本初の社会人山岳会である神戸徒歩会が結成された。また1924年にヨーロッパ帰りの藤木九三らによって結成されたロック・クライミング・クラブ (RCC) は岩山である六甲山を活動の場として、日本の登山界に初めてロッククライミングを紹介する役割を果たした。加藤文太郎も所属した山岳会である。 六甲山地南斜面の河川は下流の神戸に度々大水害をもたらし、その予防・減災の為に、六甲山地に於ける近代登山確立後には、数多くの砂防堰堤が設けられ続けており、嘗ての様な沢登りの趣は失われ続けている。同様に近代登山発祥期には、伐採・荒廃が進んで優れていた稜線・峰からの見晴らしも、同様な防災を目的とした植林成長に伴い失われ続けている。
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