近代的なコンスティチューション
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「コンスティチューション (法学)」の記事における「近代的なコンスティチューション」の解説
現在でも主権国家の統治に使われている最古の文書は、サンマリノのものである。Leges Statutae Republicae Sancti Mariniはラテン語で書かれており、6冊からなる。1冊目には62の条項があり、評議会、法廷、様々な行政官とそれに与えられる権限を定めている。2冊目以降には、刑事法、民事法、司法手続きと救済について書かれている。書かれたのは1600年で、1300年のStatuti Comunali (Town Statute/市民の法)に基づいている。Codex Justinianusの影響を受けており、現時点でも施行されている。1639年にコネチカット植民地でFundamental Ordersが採択された。これは北アメリカで最初のコンスティチューションであった。それ以降のコネチカットのコンスティチューションの基礎となったものであり、コネチカットが「コンスティチューションの州(Constitution State)」と呼ばれる理由となった。 清教徒革命(イングランド内戦)の後、オリバー・クロムウェルによりEnglish Protectorate(英国保護国)が設立された。そこで、詳細に文書化されたコンスティチューションが公布された。これは最初に近代国家で採択されたものである。名称は統治章典であった。これは、議会が有効に統治出来なくなった後に、クロムウェルの権力の増大についての法的な理論的根拠を提供して、1653年から1657年までの短期間だけ存続したイングランド共和国の基礎法典となった。またこの法律では、21人のメンバーからなる国務会議(国家評議会)を設立し、その一方で行政の権力は護国卿という官職に与えていた。この官職は、終身であるが非世襲であった。このような法律であったが、広範に受け入れられることは難しかった。急進派からも保守派(王党派)からも拒否された。議会も、議会自体の権威の根拠と認めることを拒否した。結局、1657年3月に謙虚な請願と勧告に取って代わられたが、それもさらに寿命は短く、クロムウェルの死去と王政復古により終焉を迎えた。 Agreements and Constitutions of Laws and Freedoms of the Zaporizian Hostは、欧州で最初の、現代的な意味でのコンスティチューションである。1710年にZaporozhian HostのヘトマンであるPylyp Orlykにより作成された。"Constitution of Pylyp Orlyk"として知られるこのコンスティチューションは、自由ヘーチマン国家を設立するために、カール12世の支援により書かれた。民主主義的な標準である、政府における、立法、行政、司法の各部門の権力分立を制定したことで、特筆に値する。これはモンテスキューの『法の精神』の出版に先立つものであった。このコンスティチューションは、ヘトマンの行政権限に制限を設けていた。そして民主的に選出されるコサック議会(総評議会)を制定した。しかし、このウクライナの独立国家の計画は実現せず、亡命生活の中で書かれたこのコンスティチューションは施行されることはなかった。この時期の欧州の他の例は、1755年のCorsican ConstitutionとSwedish Constitution of 1772がある。北米の英国の植民地は、13の独自の連合州となり、独自のコンスティチューションを1776年および1777年に採択した。独立戦争の最中であった。(そして後の連合規約 および アメリカ合衆国のコンスティチューションに先立つものであった。)マサチューセッツ、コネチカット、ロードアイランドは外れていた。マサチューセッツ(→マサチューセッツ州)自治領は、1780年に、そのコンスティチューションを採択した。これは米国で今でも施行されている最古のコンスティチューションである。その時点では、コネチカットとロードアイランドは、公式に旧植民地綱領により運営されていたが、それぞれ1818年と1843年に州のコンスティチューションを採択した。
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