近代産業の生成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 21:23 UTC 版)
北九州には良質の石灰岩が分布していることもあり、門司で最初の近代化工場は、セメント工場であった。東京の浅野セメント(後に日本セメント)が、1894年(明治27年)に門司工場の操業を開始した。1891年(明治24年)開業の家入鉄工所(後に門司鉄工)も一時栄えた。 特別輸出港指定から10年弱の間に、三井物産、大阪商船、日本郵船、三菱合資会社、九州倉庫、豊陽銀行、日本商業銀行、日本貿易銀行、八十七銀行などの支店・出張所が門司港に置かれた。さらに、1898年(明治31年)には日本銀行西部(さいぶ)支店が下関から門司に移転した(1917年(大正6年)に門司支店と改称)。 日清戦争後、国は製鉄事業の設立を図り、その用地として、遠賀郡八幡村(現八幡東区)、企救郡柳ヶ浦(大里)、広島県坂村の3か所を候補地とした。各地で誘致活動が行われたが、大里は選ばれず、1897年(明治30年)、官営八幡製鉄所が開業した。 1903年(明治36年)には、鈴木商店の金子直吉が大里製糖所を開業し、1907年(明治40年)にライバル企業の大日本製糖に売却した。金子は、売却益の一部で1910年(明治43年)に大里製粉所を設立した(後に日本製粉と合併)。1911年(明治44年)には九州電線(後に古河電工)、1913年(大正2年)には鈴木商店による帝国麦酒(後にサッポロビール九州工場)・大里硝子製造所・大里酒精製造所(後に協和発酵門司工場)が設立された。小森江地区に設立された神戸製鋼所門司工場(後に神鋼メタルプロダクツ)、日本冶金(後に東邦金属)も鈴木商店系である。 門司で事業を行い、全国レベルに事業を拡大した人物として、出光佐三(出光興産)、中野金次郎(日本通運)、中村精七郎(山九)、間猛馬(間組)がいる。出光佐三は、中野真吾(船舶業、旧門司市長)、久野勘助(米穀商)とともに「門司の三羽烏」と呼ばれ、門司の政財界を主導した。
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