輸送困難で経営難に陥る長門無煙炭鉱株式会社
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 03:11 UTC 版)
「大嶺炭田」の記事における「輸送困難で経営難に陥る長門無煙炭鉱株式会社」の解説
有力財界人の渋沢栄一、浅野総一郎が経営に乗り出し、設備投資の結果、石炭の採掘方法も改善し、会社発足後も地質調査を進めていくなどの経営努力を進めていた長門無煙炭鉱株式会社であったが、経営は当初から苦しく赤字続きで、1902年(明治35年)上半期までに12688円の累積赤字を計上するに至った。そして会社の経営難を見て、募集株式の払い込みも275000円で止まってしまった。 経営難の原因は産出した石炭の輸送問題であった。設立趣意書には厚狭の海岸、下関まで遠くないと書いていたが、距離的には遠くないにしても当時の大嶺炭田は文字通り山間僻地にあった。まずは荷馬車で石炭を運び出そうと考えたが、荷馬車で最寄りの駅や港まで運ぶことは不可能ではなかったものの、山間部の険しくしかも狭い道を通るため、荷馬車一台当たりの積載量は800斤(480キログラム)が限度であり、そもそも大嶺炭田付近には石炭輸送用に使用できる荷馬車そのものが少なかった。結局荷馬車では一日あたり8万斤(48トン)が限度で、輸送能力としては極めて不十分であった。そこで厚狭川、木屋川の川舟を利用することを考えたものの、大河ではない厚狭川、木屋川の水運が石炭輸送の主力を担うことは困難であった。結局のところ産出された石炭は、量的に少量であった塊炭は銅の製錬用として地元の銅山に、残りは選炭をしないまま主として地元の石灰業者に販売し、一部は車で木屋川の下流域である木屋まで搬出した上で川舟で積み出し、九州方面の石灰業者に販売した。つまり輸送問題がネックとなって、長門無煙炭鉱株式会社時代もこれまでと比べて石炭の販路は大きく広がることはなかった。 結局、長門無煙炭鉱株式会社は鉄道を敷設して石炭の輸送問題を解決する方法しかないとの結論に至り、1899年(明治32年)に鉄道技師の小川資源に、山陽鉄道厚狭駅から大嶺炭田付近までの軽便鉄道敷設についての測量と設計を委託した。小川は軽便鉄道敷設には総額35〜36万円が必要であると報告したが、赤字続きの長門無煙炭鉱株式会社にはその費用を捻出することは不可能であり、会社の経営立て直し策としては、鉱区の整理と大嶺炭田で産出された無煙炭を各地で紹介するといった方法しか取れなかった。 そのような中で、後述のように海軍が練炭を艦船の燃料として使用する計画を進めていることを聞きつけた長門無煙炭鉱株式会社は、大嶺炭田で産出される無煙炭で海軍が使用する練炭を製造する要望を出した。大嶺炭田で産出された無煙炭で製造した練炭の試焚成績は良好であり、その後も海軍は試焚を繰り返し、炭鉱の現場視察も重ねた結果、長門無煙炭鉱株式会社に対して産出した無煙炭を買い上げることを提案した。海軍が無煙炭を購入する意向を示したことを聞きつけた山陽鉄道株式会社は、1901年(明治34年)に鉄道建設の実測を行ったところ、100万円の費用を要すとの結論が出た。海軍から提案された無煙炭の年間受け入れ量から考えて、とうてい100万円の鉄道敷設費用に見合うだけの利益を上げることは出来ないと判断され、長門無煙炭鉱株式会社からも鉄道敷設についての交渉が持たれたものの、敷設には至らなかった。 鉄道の敷設が上手くゆかず、無煙炭の海軍買い上げ話もまた思うように進展しない中、赤字続きの長門無煙炭鉱株式会社は経営危機に陥っていく。長門無煙炭鉱株式会社は政府に対してしばしば公営で大嶺炭田の炭鉱事業を行うように建議してみたものの、政府から色よい返事はなかった。この問題は日露関係の緊迫化によってようやく動き出すことになる。1903年(明治36年)になって海軍は本格的に大嶺炭田の買収交渉に乗り出すようになった。経営難の長門無煙炭鉱株式会社は翌1904年(明治37年)1月にはいよいよ会社解散が検討される状況にまで陥った。しかし2月には日露戦争が開戦となり、戦時となったため日本が海軍艦船用の無煙炭を購入してきたイギリスからの輸入は危険に晒される可能性が生まれた。また戦争がいつ終わるのかは予測不可能で、戦争終結までイギリス産無煙炭を供給し続けることが出来るかどうかは不透明であった。結局海軍は長門無煙炭鉱株式会社の買収と山陽鉄道厚狭駅から大嶺炭田付近までの鉄道敷設を決断することになった。
※この「輸送困難で経営難に陥る長門無煙炭鉱株式会社」の解説は、「大嶺炭田」の解説の一部です。
「輸送困難で経営難に陥る長門無煙炭鉱株式会社」を含む「大嶺炭田」の記事については、「大嶺炭田」の概要を参照ください。
- 輸送困難で経営難に陥る長門無煙炭鉱株式会社のページへのリンク