議会からの告発、再度の失脚
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「フランシス・ベーコン (哲学者)」の記事における「議会からの告発、再度の失脚」の解説
1621年1月30日、7年ぶりに議会が開かれた。三十年戦争でヨーロッパ大陸が戦乱に包まれ、ジェームズ1世の娘エリザベス・ステュアートの夫であるプファルツ選帝侯フリードリヒ5世が戦争当事者のため、戦争に備える費用調達が目的だった。議会には独占権に対する反感が再度湧き上がっていたため、それを察していたベーコンは議会対策を行い、その一環として1601年にエリザベス1世が取った対策を参考に、バッキンガム侯へ独占権廃止を要請した。だがバッキンガム侯は要請を取り上げず独占権をそのままにしていたため、初めは政府に友好的で主要目的だった特別税を認めた議会は一転して独占権批判を展開、かつてベーコンが排除した政敵コークが批判運動の先頭に立ち深刻な政争が始まった。 議会はまずバッキンガム侯の身内を独占権濫用の疑いで告発、続いてバッキンガム侯も追及しようとしたが、ジェームズ1世がバッキンガム侯を擁護し独占権批判を国王大権に触れることを理由に議論中止を求めたため、独占権批判は終息に向かった。しかし議会の怒りの矛先はベーコンに向けられ、独占権の審議に関わり違反者を処罰したこともあるベーコンにとっては不安が残る物となった。ジェームズ1世がバッキンガム侯を守るためベーコンを議会攻撃のスケープゴートにすることを画策、彼を見放したことも不安を助長していた。 やがて不安は現実となり、ベーコンは独占権批判が終息した直後の3月14日に庶民院で訴訟関係者から賄賂を受け取ったという告発を受けた。ベーコンはこの告発を認めたが、判決には影響を与えていないと弁護した。当時、裁判官が贈物を受け取るのは普通のことであり、この告発には党派争いが絡んでいた。しかし弁護は通らず、コークらのベーコンへの追及は止まず庶民院でベーコンを告発する人物が続出した。病気療養中だったこともありベーコンの対応は遅れ、ジェームズ1世からの助けも得られず、観念したベーコンは4月30日に貴族院へ問責書に対する返書を送り、収賄を認め弁護を放棄し処分を貴族院に委ねた。5月3日に判決が下り、罰金4万ポンド、国王の許可があるまでロンドン塔へ監禁、一切の公職就任禁止、議会出席・宮廷出仕禁止を言い渡された。こうしてベーコンは再度失脚、4日間ではあるが、5月末から6月4日までロンドン塔に閉じ込められもした。 以降はセント・オールバンズの領地で隠退生活を送って著述に専念した。ジェームズ1世の計らいで投獄は短期間で済み、罰金も年1200ポンドの分割払いに抑えられ、翌1622年にはグレイ法曹院の帰還やロンドン居住も許され、友人トビー・マシュー(英語版)にも支えられ傷心をいくらか癒すことが出来た。一方で知的好奇心と政界復帰の望みを押さえられず、しばしば国王や政府関係者に助言を書き送ったり名誉回復を願い出たりしながら、著作を続々と出版、『ヘンリー七世王史』(1622年)、『自然誌と実験誌』(1622年)、『学問の進歩』を増補・ラテン語版に訳した『学問の尊厳と進歩』(1623年)、『資料の森』(1624年)、『随筆集』(1625年、第三版)などを書き上げた。しかし60代のベーコンは病気がちになるにつれて復帰の意志が弱まり、1625年にチャールズ1世が即位して開かれた議会に召集があった時は断っている。 1626年に鶏に雪を詰め込んで冷凍の実験を行った際に悪寒にかかり、近くのアランデル伯爵トマス・ハワードの屋敷に身を寄せたが、体調は回復せず4月9日に気管支炎を起こして死亡した。65歳だった。
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