議会からの弾劾と私権剥奪
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「トマス・ウェントワース (初代ストラフォード伯爵)」の記事における「議会からの弾劾と私権剥奪」の解説
1640年8月にはスコットランド軍がイングランドへ侵攻してきた(第2次主教戦争)。ストラフォード伯はヨークシャーに軍を集めてこれを迎え討とうとしたが、結局敗れてノーサンバーランドとダラムを占領された。軍資金がないチャールズ1世は、スコットランド軍撤兵の条件として5万ポンドの賠償金をスコットランドに支払うリポン条約の締結を余儀なくされた。チャールズ1世はその賠償金も用意できないため、更に弱い立場で11月3日に議会を再招集する羽目になった(長期議会)。 半年の間に世論の空気は変わっており、国王とその側近に対する信頼は完全に消えていた。そのため前議会が穏便に親政前に戻ろうとしていたのに対し、新議会は親政の責任追及の機運が高かった。親政下で逮捕された政治犯が次々と釈放されるとともに国王側近に厳しい責任追及が行われることになった。 急進的進歩派の指導者の庶民院議員ジョン・ピムはストラフォード伯を「国民の自由の最大の敵」と見做していた。ピムの主導で庶民院は彼の弾劾裁判を推し進めた。そして11月11日には「王国の基本法を転覆しようとした」とされて反逆罪で弾劾されたが、ストラフォード伯自身の反論と貴族院が逡巡して弾劾に同意しそうになかったことから庶民院は戦術を転換し、対象とされた人物から生存権を含めたすべての権利を奪い取る私権剥奪法制定を目指した。 1641年4月に庶民院はストラフォード伯の私権剥奪と死刑を求める法案を204対59で可決させた。アイルランド・カトリック軍を国王のために使うことを示唆したストラフォード伯のメモの公表、また議会外のロンドン市民によるストラフォード伯処刑を求める示威行動などの影響で貴族院も妥協して同法案に賛成した。議会がこれほど彼の処刑を急いだのは、ストラフォード伯こそは唯一国王の専制政治を復活させうる力量を持つ政治家と恐れられていたからである。実際に国王は軍隊と共謀して議会を解散し、ストラフォード伯を救出する陰謀を企てていた。 国王は法案への署名に逡巡したが、ロンドン市民の暴発を恐れて結局拒否権を行使できなかった。またストラフォード伯自身も国王に以下のように手紙を書いて自分の処刑法案を拒否しないよう訴えていた。 「…私は、陛下の署名拒否によって起こるであろう暴動や虐殺といった惨事を防ぐために、陛下にご署名なさることを謹んで嘆願いたします。現在の不幸な状況を乗り越えて、陛下と議会が神の祝福のもとに合意にいたることができるならば、これにまさる望みはありません。」
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