読み間違い
『無名抄』(鴨長明) 法性寺殿歌合において、源俊頼と藤原基俊の2人が判者をつとめた。俊頼が「口惜しや雲井隠れに棲むたつも思ふ人には見えけるものを」と詠じた時、基俊は「たつ(龍)」を「たづ(鶴)」と誤解し、「鶴は沢に棲むもの。雲井には住まぬ」と難じて、負にした。後日、俊頼は、「この歌は、葉公の故事(好んで龍を描く葉公のために龍が姿を現した)を詠んだものである」と判詞に記した。
『読みちがい』(落語) 信心者の善兵衛が、毎日観音様へ参詣する。ある朝、1枚の紙が飛んで来たので、見ると「おんかしあるへえさとうせんへい」と書いてある。これは菓子屋のチラシで、「御菓子。有平(=アルヘイ糖)。砂糖煎餅」の意味だったが、善兵衛は「おうかじあるべえ。さとれ、ぜんべい(大火事あるべえ。悟れ、善兵衛)」と読み間違え、火事に備える〔*実際その夜、大火事が起こったので、善兵衛の読み間違いも、観音様のおはからいだったのであろう〕。
★2.漢字の読み間違い。
『平林』(落語) 平林という家へ使いに行く男が、往来の人々に「平林」と書いた紙を見せ、読み方を尋ねる。ある人は「『たいらばやし』と読むのだ」、と言い、またある人は「『ひらりん』と読むのだ」と言う。「一八十の木木(いちはちじゅうのもくもく)」とか、「一つと八つで十木木(ひとつとやっつでとっきっき)」などと教える人もいる。男はどれが正しい読み方かわからず、いろいろな読みを連呼して平林家を捜す。
*「一尼公」という宛て名が読めない→〔文字〕4の『一尼公(つれなしのあまぎみ)』(御伽草子)。
『封神演義』第15回 宋異人は姜子牙と義兄弟だった。宋異人は若い頃、街へ野菜を売りに出て、「此巷無路(この露地は行き止まり)」の立札を、「北港魚落(北港で魚の大安売り)」と読み間違えた。彼は大急ぎで北港に駆けつけて、無駄足を踏んだ。宋異人は「文字をきちんと覚えよう」と心に誓ったが、姜子牙は「広告」の効用を悟り、宋異人に「立札広告」を勧めた。宋異人は「立札広告」を使って商売し、財を成した。
棒の手紙(日本の現代伝説『幸福のEメール』) 「これは棒の手紙です。あなたのところで止めると、必ず棒が訪れます。○○さんが止めたところ、○○さんは殺されました。文章を変えずに、12日以内に28人に出して下さい」という手紙が来た。「棒の手紙」は、本来は「不幸の手紙」だった。横書きで「不」と「幸」がくっついて書かれていたのを、誰かが「棒」と見間違え、「棒の手紙」と書いて次の人に出し、以後そのまま書き継がれていったのである。
『奇病連盟』(北杜夫) 山高武平は、一流新聞の入社試験を受け、作文を書かされた時、大失敗をした。試験官が、「日本経済への期待」という題を、1行で書けばよいのに、4文字ずつ2行に分けて黒板に書いたのだ。武平は、「日本経済」と「への期待」の2題のうち1つを選んで書くのだと誤解し、盲腸手術の経験を思い出しつつ、「への期待」について書いた。もちろん武平は不合格で、彼の作文は、その新聞社で出している週刊誌に、「珍答案」の例として載ってしまった。
★5.アルファベットの読み間違い。
『失われた時を求めて』(プルースト)第6篇「逃げさる女」 愛人アルベルチーヌが死んで何ヵ月もたった後のこと。「私」は、「アルベルチーヌ」と署名した電報を受け取った。無沙汰を詫び、結婚のことについて話したい、との内容だったので「私」は驚いた。実際はそれは、「私」がかつて恋したジルベルトからの電報で、彼女がサン=ルーと結婚することを知らせて来たのだった。ジルベルトの筆跡は独特なもので、電報局の局員が「G」を「A」と読み違えるなど何文字かの誤読があって、ジルベルトからの電報が、アルベルチーヌからの電報になってしまったのだ。
*数字の読み間違い→〔取り違え夫婦〕の『覆面の舞踏者』(江戸川乱歩)。
『太平記』巻1「俊基偽つて籠居の事」 日野俊基は、比叡山からの奏状を読み上げる時、「楞厳院(りょうごんいん)」を、わざと「慢厳院(まんごんいん)」と読み間違えた。諸卿は、「『楞』の旁(つくり)に『万』の字があるから『まん』と読むのなら、『相』は、偏も旁も「もく」だから、「もく」と読むべきだなあ」と笑った。俊基は、「たいへんな恥をかいたので籠居する」との口実をもうけて、半年ほど身を隠した。その間、彼はひそかに山伏姿となって諸国を巡り、倒幕計画を練った。
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