血統的背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 04:48 UTC 版)
母のウィッシングウェルは12勝(うち重賞2勝)を挙げたが、その母系を遡るとマウンテンフラワー、エーデルワイス、ダウィジャー、マルセリーナはいずれも競走馬として優勝したことがない。ただし、7代母のシナは1000ギニーステークスとコロネーションステークスの勝ち馬である。ヘイローの母のコスマーは半妹にノーザンダンサーの母・ナタルマ(父ネイティヴダンサー)を持つ血統だったものの、前述のように母系が地味であったことが種牡馬としてのサンデーサイレンスの評価を下げる一因となった。 サンデーサイレンスは非常に気性が荒かったが、父のヘイローも突然人を襲うなど気性の荒い馬として知られていた。母のウィッシングウェルも気性が悪く、競走馬時代の管理調教師のゲイリー・ジョーンズによると、厩舎に到着したウィッシングウェルは手も付けられないほど気性が悪く、「気が違ってるんじゃないかと思ったほどだったよ」と振り返っている。 サンデーサイレンスの全妹サンデーズシス、ペニーアップ、マイライフスタイルの3頭が日本に輸入され繁殖牝馬となっている。ペニーアップの孫トーセンクラウンは中山記念で優勝している。
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血統的背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 18:10 UTC 版)
父・ダンシングキャップの種牡馬成績はさほど優れていなかったため、オグリキャップは「突然変異で生まれた」、もしくは「(2代父の)ネイティヴダンサーの隔世遺伝で生まれた競走馬である」と主張する者もいた。一方で血統評論家の山野浩一は、ダンシングキャップを「一発ある血統」と評し、ネイティヴダンサー系の種牡馬は時々大物を出すため、「オグリキャップに関しても、そういう金の鉱脈を掘り当てたんでしょう」と分析している。 母・ホワイトナルビーは現役時代は笠松で4勝を挙げ、産駒はすべて競馬の競走で勝利を収めている(ただしほとんどの産駒は地方競馬を主戦場としていた)。5代母のクインナルビー(父:クモハタ)は1953年の天皇賞(秋)を制している。クインナルビーの子孫には他にアンドレアモン、キョウエイマーチなどの重賞勝ち馬がいる。
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血統的背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:15 UTC 版)
母ハヤノボリは競走馬として5勝をあげた。母の半妹には優駿牝馬優勝馬ジツホマレ、甥に皐月賞優勝馬カズヨシがいる。牝系(ファミリーライン)は1907年にイギリスから小岩井農場が高額で輸入したビューチフルドリーマー系(参照:小岩井農場の基礎輸入牝馬)に属する。ビューチフルドリーマー系はほかにテイエムオーシャン、メイヂヒカリなど多数の名馬を輩出している。 シンザンの尻尾の付け根には白色の毛が混じっていたが、これは母の父の父にあたるセフトの遺伝といわれている。また、調教師の武田は初めてシンザンを見たときに母の母の父にあたるトウルヌソルの特徴が強く出ていると感じた。
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血統的背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/04 00:46 UTC 版)
母クモワカ(繁殖名丘高)が5歳(現4歳)時、1952年(昭和27年)冬に京都競馬場で発生した馬伝染性貧血(伝貧)の集団感染騒動に巻き込まれ、クモワカは家畜伝染病予防法第17条により京都府知事名で殺処分命令を受けた。しかし関係者はクモワカの状態からこの診断について疑問を持ち、取りあえずクモワカを学術研究用馬として京都競馬場の隔離厩舎に匿った。そして引き延ばしに引き延ばして3年近く隔離状態に置かれた末、1955年10月に突然姿をくらました。クモワカを関係者が密かに北海道に連れ帰ったためであり、早来の吉田牧場に匿われた。やがて牧場はクモワカを血統名「丘高」の名で繁殖牝馬の登録申請を提出して登録協会が一旦は認めたが、丘高が殺処分命令により死亡とされたクモワカであることを知ったため、丘高の繁殖牝馬登録を取消し、クモワカから生まれてきた産駒は競走馬登録をすることができず、登録協会と牧場側との争いになった。そんな中で、子供を産めることこそが非感染の証拠であるとして1959年9月に東京地裁に馬主が訴え出て裁判沙汰に発展する。クモワカが健康馬であること、産駒を出産して伝貧であることが誤診であることを示しているという馬主側の主張は1963年秋に認められた。そして他の馬主や生産者からの嘆願書を受けて登録協会が臨時の理事会を開き、クモワカを再検査して健康と診断されれば登録を認めるという結論を出すに至り、北海道庁の検査によりシロの結果を得て、クモワカとその産駒は正式に登録が認められた。こうして丘高の繁殖馬としての登録が叶った年に生まれた子がワカクモであった。クモワカの5番目の産駒であったワカクモが母の無念を晴らしたのは前述したとおり。(正式に登録が認められてからワカクモの兄姉は中央競馬にデビューしている) このクモワカの一件について、寺山修司は自身の競馬随筆において「競馬界の岩窟王事件」と称している。また、当初のクモワカへの伝貧診断については当時の確認技術の未発達ゆえの誤診のほかにも諸説があり、ほかにもさまざまに言われてきた。中には下記の様な説も存在する。 患畜の取り違えによる手違い 当時の京都競馬場に出入りする獣医の間に派閥争いがあり、相手派閥の獣医の評価を貶めるためなどに偽りの診断が下された なお、母クモワカ・ワカクモ・子テンポイントはいずれも11勝で生涯を終えている(キングスポイントは通算15勝)。そのような点にも、ひとつの縁が感じられる。
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