蟄居の経緯
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嘉永4年(1851年),真木保臣,木村三郎,稲次因幡(正訓),水野丹後(正名,渓雲斎)の外同志一党は有馬頼咸に対して意見書を上申した。保守派の家老や内同志を藩政から追放し,代わって外同志が推す木村三郎,水野丹後(正名,渓雲斎),馬淵貢を起用するものであった。 当時,久留米藩では村上量弘(守太郎),木村三郎,真木保臣ら藩士が水戸藩に遊学し天保学を学んだ後,藩内で広がり天保学連が一大勢力となるものの,村上守太郎率いる佐幕開国派(公武合体派)で藩政執行部内に籍を置く「内同志」と真木保臣率いる尊王攘夷派で改革を説き藩政外に籍を置く「外同志」の二派に分裂し対立があった。 「内同志」には野崎平八,今井栄,不破孫市,不破美作,有馬河内監物(昌長)がおり,「外同志」には木村三郎,水野丹後(正名,渓雲斎), 稲次因幡(正訓),小河真文がいた。 この「内同志」と「外同志」対立は後の文久を経て元治元年(1864年)7月21日,禁門の変での真木保臣死後も続いた。慶応3年(1867年)10月14日,第十五代将軍徳川慶喜による大政奉還,12月9日王政復古宣言により幕府は倒れ尊皇攘夷の新政府成立後,さらに慶応4年(1868年)1月3,4日の鳥羽伏見の戦いでの幕府軍敗退,尊王攘夷派である新政府軍勝利まで続く。その後,慶応4年(1868年)1月26日夜10時頃,佐幕開国派の重鎮である不破美作が佐々金平ら尊王攘夷派に暗殺されたことから藩首脳は狼狽し,2月5日,佐幕開国派の有馬河内監物(昌長),今井栄らを役職追放とした。不破美作暗殺に加わった者は無罪とした。これにより尊王攘夷派の水野丹後(正名,渓雲斎)が嘉永の大獄に報復する形で尊王攘夷派政権を確立し,藩政に返り咲く。後に有馬河内監物(昌長),今井栄らに切腹を命じた。これにより尊王攘夷派の外同志派が復権したものの,明治3年(1870年),久留米藩難が起きる。長州藩士で新政府打倒派の大楽源太郎らが藩を追われ,古松簡二を頼り筑後地方に潜伏,尊王攘夷派の久留米藩と組み,尊王攘夷から開国主義に突然変化した明治政府に不満を抱き,打倒を企てる計画を立てたが政府側に発覚することとなる。明治4年(1871年)2月,明治政府は鎮圧にあたらせるため四条隆謌陸軍少将(七卿落ち、後に五卿となり一時太宰府に遷居していた内の一卿)による久留米藩討伐隊を送る。旧藩主有馬頼咸は謹慎処分,水野丹後(正名,渓雲斎)と小河真文ら100名余を逮捕,後の裁判で小河真文は断首刑(享年25歳),水野丹後(正名,渓雲斎)らは終身刑となったのである。 嘉永4年(1851年)12月15日,稲次因幡(正訓)が登城, 有馬頼咸と会見し,家老有馬河内(昌長)らに有馬頼咸廃立の意図があることを告げ,改めて外同志一派の起用を迫った。稲次因幡(正訓)の訴えを聞いた有馬頼咸は激怒して有馬河内監物(昌長)以下の取り調べを命じ,有馬河内監物(昌長),稲次因幡(正訓),水野丹後(正名,渓雲斎)ら関係者を謹慎させ,真木保臣も勤番塾に謹慎となる。 嘉永5年(1852年)5月17日,党を組んで藩政を非難したとして外同志一同に対し無期禁固同様の厳罰処分が下された。真木保臣への申渡書には「忠誠に事寄せ証拠なき妄言を以て(中略)御政道を妨げ候段,職分忘却不届きの至り」とあり,22代水天宮司の職を解かれ,弟大鳥居氏((理兵衛信臣(啓太信臣))邸に蟄居となった。 その様子は真木保臣の日記,南僊日録に記録がある。 嘉永5年(1852年)壬子夏4月9日。朝,寺社奉行馬淵氏,予を徴す。予は暗會する所があったので後に梳浴し,弟妻兒を呼び,後事を託して出る。馬淵氏は己の客間に在り。馬淵氏曰く「命はある,汝を率いて右近太夫(家老有馬右近)の屋敷に詣るべし」。午後10時頃,問いただされた。夜,勤番塾(長屋,門横にある建屋)に幽される。 嘉永5年(1852年)壬子夏4月9日。朝奉行馬淵氏徴ㇾ予。〃有ㇾ所二暗會一。乃梳浴呼二諸弟妻兒一。託二後事一而出。馬淵氏己在ㇾ寝。曰。有ㇾ命。宜二率ㇾ汝詣二右近太夫第一。乃率行。四鼓見ㇾ鞠。云々。入ㇾ夜。見ㇾ幽二于勤番塾二。卒監一員。卒四員。馬淵氏隷人二員。後滅二一員。道方丁一員。交番護衛。
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