蟄居の理由
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 06:54 UTC 版)
重次はたびたび豊臣秀吉の怒りを買っていたとされる。 家康の次男・於義丸(後の結城秀康)と共に人質として秀吉に差し出されていた息子・仙千代(後の本多成重)を「母親の看病をさせたい」と嘘をついて呼び戻した(『藩翰譜』における本多重次・成重父子についての記述)。 天正14年(1586年)、家康が秀吉に臣従を誓い上洛する代償として秀吉の生母・大政所が岡崎に下向した時、家康の後室となった娘の旭を見舞うという名分で岡崎に入った大政所の宿舎に、薪を積んで万一の有事に備えたため、秀吉の心証を著しく損なった。 小田原攻めの折り、秀吉が岡崎城に立ち寄った際、重次との対面を予定していたにもかかわらず、重次は応じなかったため秀吉を不快にさせた。
※この「蟄居の理由」の解説は、「本多重次」の解説の一部です。
「蟄居の理由」を含む「本多重次」の記事については、「本多重次」の概要を参照ください。
- 蟄居の理由のページへのリンク