蟄居の命が下り水田へとは? わかりやすく解説

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蟄居の命が下り水田へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 00:08 UTC 版)

山梔窩」の記事における「蟄居の命が下り水田へ」の解説

嘉永5年1852年5月17日午後10時前,寺社奉行馬淵貢の附吏緒方清兵衛来て曰く,「命あり,宜し馬淵氏に詣るべし」とのこと雙刀授かり乃ち衣を更へて詣でる馬淵氏譴書を読む。汝を以て汝の弟大鳥居氏((理兵衛信臣(啓太信臣))に幽す宜し直ち到るべき也。と水田での蟄居命じられた。永田但馬先に在り,送り国外に至る。亦命なりと言う津福社にて休憩し,僕の太助を待つ。夜半始めに来る。草鞋履き替えて行く。藤田川で飯,水田に至る。夜巳に明けたりとあるため、夜明け頃に水田到着している。 なお,休憩した津福社は二社合併津福今神社と津福八幡神社の計3か所が想定される特定出来ない津福今神社は福岡県久留米市津福今町足形にあった八幡神社応神天皇祀)と同字南出にあった天満神社菅原道真祀)が大正3年1914年8月合併,同津福今町199移転改称されている。津福八幡神社応神天皇祀:由緒不明)は福岡県久留米市津福本町1074にある。境内には昭和7年1932年九州鉄道株式会社(後に西日本鉄道株式会社)が福岡津福間の開業に伴い,津福駅建設のため移転され田中神社がある。田中神社慶長7年1602年筑後国領主田中吉政着任し,柳川街道現在の福岡県道23号)を作るなどの功績残したとされる。 夜四鼓前馬淵氏附吏緒方清兵衛告白。有ㇾ命。宜ㇾ詣二馬淵氏一。授雙刀一。乃更ㇾ衣而詣焉。馬淵氏讀二譴書一。因授ㇾ焉曰。以汝幽二亍汝弟大鳥居氏一。宜二直到一也。永田但馬在焉。送到二、國、外一。亦命也云。憩二津福社一。待太助一。夜半始來。乃着二草鞋而行。飯二于藤田川一。到二水田一。則夜巳明。 大鳥居家の本家太宰府延寿王院信全。信全は菅原道真の子孫で僧籍であり,三条実美の父である三条実萬とは従兄弟。 外同志真木保臣と内同志馬淵貢は水戸学奉じ天保学連の元同士であった真木保臣同じく稲次因幡正訓),水野丹後正名,渓雲斎),木村三郎重罪となったこの処分は「嘉永大獄と言われる真木保臣が一番軽い処分であった稲次因幡正訓)は翌年自刃真木保臣,水野,木村は後に解囚された。 真木保臣の弟は3人,理兵衛(信臣),弥伝次(氏就は天保8年1837年2月,太宰府小野氏倫の養子となり小野加賀名乗る),外記直人)がいた。 理兵衛(信臣)は天保元年1830年),14歳時に水田天満宮留守別当大鳥居八兵衛養子となり,大鳥居啓太信臣を名乗る真木保臣家族は妻睦,太(早逝),佐忠主馬23久留米水天宮司),彦三郎(早逝),小棹,四郎である。四男四郎には妻はつ,子さき,みや(後に真木保臣二男主馬の子,勤四郎真木保臣の弟外記の子であった主馬養子となる)と婚姻,子長時)がいた。また四郎は四男であるが,太と彦三郎が早逝しているため後に二男とも。 蟄居直後大鳥居家の一室間借りしていた。

※この「蟄居の命が下り水田へ」の解説は、「山梔窩」の解説の一部です。
「蟄居の命が下り水田へ」を含む「山梔窩」の記事については、「山梔窩」の概要を参照ください。

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