蟄居の命が下り水田へ
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嘉永5年(1852年)5月17日午後10時前,寺社奉行馬淵貢の附吏緒方清兵衛が来て曰く,「命あり,宜しく馬淵氏に詣るべし」とのこと。雙刀を授かり乃ち衣を更へて詣でる。馬淵氏譴書を読む。汝を以て汝の弟大鳥居氏((理兵衛信臣(啓太信臣))に幽す。宜しく直ちに到るべき也。と水田での蟄居を命じられた。永田但馬は先に在り,送りて国外に至る。亦命なりと言う。 津福社にて休憩し,僕の太助を待つ。夜半始めに来る。草鞋に履き替えて行く。藤田川で飯,水田に至る。夜巳に明けたりとあるため、夜明け頃に水田に到着している。 なお,休憩した津福社は二社合併の津福今神社と津福八幡神社の計3か所が想定されるが特定は出来ない。津福今神社は福岡県久留米市津福今町字足形にあった村杜八幡神社(応神天皇祀)と同字々南出口にあった村杜天満神社(菅原道真祀)が大正3年(1914年)8月に合併,同津福今町199に移転改称されている。津福八幡神社(応神天皇祀:由緒不明)は福岡県久留米市津福本町1074にある。境内には昭和7年(1932年)九州鉄道株式会社(後に西日本鉄道株式会社)が福岡-津福間の開業に伴い,津福駅建設のため移転された田中神社がある。田中神社は慶長7年(1602年)筑後国領主に田中吉政が着任し,柳川街道(現在の福岡県道23号)を作るなどの功績を残したとされる。 夜四鼓前馬淵氏附吏緒方清兵衛来告白。有ㇾ命。宜ㇾ詣二馬淵氏一。授雙刀一。乃更ㇾ衣而詣焉。馬淵氏讀二譴書一。因授ㇾ焉曰。以汝幽二亍汝弟大鳥居氏一。宜二直到一也。永田但馬在焉。送到二、國、外一。亦命也云。憩二津福社一。待太助一。夜半始來。乃着二草鞋而行。飯二于藤田川一。到二水田一。則夜巳明。 大鳥居家の本家は太宰府の延寿王院信全。信全は菅原道真の子孫で僧籍であり,三条実美の父である三条実萬とは従兄弟。 外同志の真木保臣と内同志の馬淵貢は水戸学を奉じた天保学連の元同士であった。真木保臣と同じく稲次因幡(正訓),水野丹後(正名,渓雲斎),木村三郎も重罪となったこの処分は「嘉永の大獄」と言われる。真木保臣が一番軽い処分であった。稲次因幡(正訓)は翌年に自刃,真木保臣,水野,木村は後に解囚された。 真木保臣の弟は3人,理兵衛(信臣),弥伝次(氏就は天保8年(1837年)2月,太宰府小野氏倫の養子となり小野加賀を名乗る),外記(直人)がいた。 理兵衛(信臣)は天保元年(1830年),14歳の時に水田天満宮留守別当職大鳥居八兵衛の養子となり,大鳥居啓太信臣を名乗る。 真木保臣の家族は妻睦,鱗太(早逝),佐忠主馬(23代久留米水天宮司),彦三郎(早逝),小棹,菊四郎である。四男菊四郎には妻はつ,子さき,みや(後に真木保臣の二男主馬の子,勤四郎(真木保臣の弟外記の子であったが主馬の養子となる)と婚姻,子長時)がいた。また菊四郎は四男であるが,鱗太と彦三郎が早逝しているため後に二男とも。 蟄居直後は大鳥居家の一室を間借りしていた。
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