良子女王とメディア露出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 02:19 UTC 版)
宮中某重大事件後の1922年3月、牧野大臣から勅許に関する話を受けて以降、久邇宮家側は良子女王の参拝や訪問に合わせて写真取材を許した。特に、6月10日に幕張海岸で着物の裾をたくし上げながら潮干狩りに興じるスナップ写真は、大きな波紋を呼んだ。宗秩寮御用掛倉富勇三郎や同総裁徳川頼倫は困惑し、西園寺八郎式部次長は激しく非難した。 6月20日、宮内大臣牧野伸顕は結婚を許可する親書に署名するよう皇太子に求め、父大正天皇に代わって摂政として署名することによって、勅許が下りた。同年9月28日に納采の儀、翌1923年(大正12年)11月27日に婚儀が定められた。 勅許が下りた際、牧野大臣は邦彦王に、写真や記事への良子女王の露出を控えるよう、明確に要請した。良子女王ら久邇宮家の同年9月の東北訪問は、牧野から邦彦王に直々の要請により、写真に撮られることを避けるために中止された。また、同年9月から翌年2月頃には、徳川宗秩寮総裁や、酒巻芳男、二荒芳徳により、良子女王の洋行の計画が推進された。最終的に、牧野大臣の強い反対により洋行計画は立ち消えとなるが、さらに倉富に至っては、国内外を問わず良子女王の外出そのものに否定的だった。 9月28日、納采の儀、賢所皇霊殿神殿に奉告の儀、神宮・神武天皇山陵・明治天皇山陵・昭憲皇太后山陵に奉幣の儀、勲章を賜うの儀、賜剣の儀が執り行われた。午前8時に、納采の勅使として、侍従長徳川達孝伯爵が、さらに午後1時30分には、勲章を賜うの勅使として侍従次長小早川四郎男爵が、それぞれ久邇宮邸に遣わされた。これにより正式に婚約が成立し、皇族身位令第10条の規定に基づき、良子女王は勲一等宝冠章を受章した。一連の儀式の後、婚約が正式に告示された。 婚約後の1923年(大正12年)春、久邇宮家一家は、九州・四国・関西を40日かけて旅行した。後に香淳皇后が還暦を迎えた際、60年間の楽しい思い出として真っ先にこの時のことを挙げている。この西日本旅行に際して、良子女王の旅程や、言動・ファッションが大々的に報じられた。さらに久邇宮家は記者による自由な写真撮影を許容し、良子女王が各地で見せる生き生きとした姿は、新聞・雑誌記事の他、絵葉書や『良子女王御巡遊画報』により大々的に報じられた。こうして表象された良子女王は、各地で奉迎を受け、福岡市で10万人、久留米市で15万人が沿道に集い、警備もソフトなものであった。当時は日本に新中間層が確立された時期と重なり、良子女王はメディアにおいて「スポーツや音楽を愛好する若い女性」として描かれ、皇室の世俗的な人気を高めた。社会が大衆化していく中で、容姿やファッションに注目が集まる「スター化」により皇族像が転換し、良子女王はその象徴的存在であったと考えられている。 同年夏、良子女王は新潟県赤倉の細川護立侯爵が前年に建てた別荘で過ごしていた。9月1日の関東大震災に際し、婚約者である皇太子の無事の報に安堵するとともに、被災者のための着物づくりに取り組んだ。同月中、二度にわたって首都を視察した皇太子は、自ら婚儀の延期を決定した。 さらに、同年12月27日には虎ノ門事件が発生し、皇室に暗い影を落とした。
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