絶対王政の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 08:22 UTC 版)
デンマークに絶対王政を確立したフレゼリク3世(左)とクリスチャン5世 詳細は「フレデリク3世 (デンマーク王)」、「クリスチャン5世 (デンマーク王)」、「スコーネ戦争」、「大北方戦争」、および「フレデリク6世_(デンマーク王)」を参照 カール・グスタフ戦争終結後、デンマーク国内では免税特権に見合う兵役義務に応じなかった貴族階級に対し国民の不満が高まった。1660年9月、コペンハーゲンにて貴族、聖職者、市民200名を代表する身分制議会が召集され、新税導入を巡り特権身分の貴族と非特権身分の聖職者、市民の対立が始まった。10月になると突如、選挙王制から世襲王制への制度変更が議題に上がった。10月8日、非特権身分は王国参事会に打診、フレゼリク3世と王国参事会の調整により世襲王政への体制移行が決まった。その後、フレゼリク3世が即位時に調印した即位憲章が破棄され、王国参事会も廃止、身分制議会の招集も19世紀までなかった。フレゼリク3世は、1660年末に財務省、国務省、官房、陸軍省、海軍省といった官僚制度を整備し、翌1661年1月10日付で「絶対世襲政府文書」が回覧され、諸身分の承認が得られることでここにデンマークにおける絶対王政が始まった。フレゼリク3世は絶対王政を確立するために「諸身分の特権規定」を公布し身分政策に着手、貴族の中央での官職並びに地方統監職の独占を崩壊させるとともに、軍役奉仕義務の表裏一体となっていた免税特権を失わせることに成功した。また、王権強化のために中央政府の官僚機構を整備するとともに、地方でも貴族が地方統監という行政責任者を担っていた従来のレーン制から中央から県知事(デンマーク語版)を派遣して支配させるアムト制(デンマーク語版)へ移行、徴税権も地方統監から中央の財務官に委譲された。財政政策ではカール・グスタフ戦争後の財政難克服のために1664年に土地改革が行われ、従来無税だった荒廃農地にも推定収穫量を元に領主の責任で課税された。国王の絶対権力を権威づけ正当化するために1665年に「国王法」が制定された。その際、要職を任されたのが市民階層出身のペーダー・シューマッカ・グリッフェンフィルド(デンマーク語版)だった。「国王法」の規定により国王は人事権を掌握し、唯一の軍事力および課税権を保有し、立法府もまた掌握する絶対的な存在として君臨することとなった。外交・軍事面ではスウェーデンからの失地回復が課題となったが、財政難から軍隊は削減、要塞の建設と徴兵で賄うこととなった。 1670年にフレゼリク3世の後を継いだクリスチャン5世は父王の政策を推進した。1671年5月25日、伯爵・男爵の特権規定、位階制導入勅令の2つの法律を公布、前者では従来の貴族を旧貴族と規定、旧貴族で新たに新貴族に叙されたもの、新貴族(中心は官庁、外国人)の三種類の貴族が存在することとなり、旧貴族の政治参画の排除を目指した。後者では絶対王政の国王を頂点にした新たな序列を作るもので同様に旧貴族の排除を狙ったものだった。クリスチャン5世の腹心としてペーダー・シューマッカ・グリッフェンフィルドが就き1673年には宰相に就任し、重商主義政策を推進し西インド諸島の開発に乗り出した。1674年からのスコーネ戦争ではスウェーデンからの失地回復はかなわず、ペーダー・シューマッカ・グリッフェンフィルドは失脚、ヴィーベ、ビアマンといった各省庁の市民出身の官僚が集団で政治の主導権を握った。彼らの下で、1683年に「デンマーク法(デンマーク語版)」("Danske Lov")が制定され、地方ごとに異なっていた法典が統一された。また、ノルウェーには1687年に「ノルウェー法」が制定された。1688年には度量衡を統一し検地を実施し、それを元にした新土地税制を実施した。こうして、フレゼリク3世、クリスチャン5世の時代にデンマークの絶対王政が確立した。
※この「絶対王政の時代」の解説は、「デンマークの歴史」の解説の一部です。
「絶対王政の時代」を含む「デンマークの歴史」の記事については、「デンマークの歴史」の概要を参照ください。
- 絶対王政の時代のページへのリンク