結成 - バンド名変更まで (1987年-1999年)
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「ハーレム・スキャーレム」の記事における「結成 - バンド名変更まで (1987年-1999年)」の解説
ハーレム・スキャーレムの結成は1987年。当時、「Blind Vengeance」というスピードメタル・バンドにいたハロルド(ハリー)・ヘス(ボーカル)とダレン・スミス(ドラム、ボーカル)、「Minotaur」なるバンドでギターを弾いていたピート・レスペランス(ギター、ボーカル)、地元で音楽学校に通いながらポルカ・バンドでベースを弾き、DJの経験もあるマイク・ジオネット(ベース、ボーカル)の4人で結成される。 結成後、レコード会社のディールを得るためデモテープの作成に励みながら、地元FMラジオ局のコンテストに参加、2位という成績を収め、この結果ワーナーとワールドワイド・レコード契約を結ぶ。 ファースト・アルバム制作はマーク・リブラー等、外部ライターの協力も得ながら進められ、1991年『ハーレム・スキャーレム』としてリリースされる。これをサポートするツアーとして1992年まで北米中心のツアーが行われる。 ツアー終了後、セカンド・アルバムの制作に取り掛かり、1993年『ムード・スウィングス』をリリースする。「Change Comes Around」「No Justice」「Saviors Never Cry」などの曲がこのアルバムに収録されている。 またこのアルバムは日本、フィリピン等のアジア諸国でヒットし、特に日本では1990年代に入り低迷気味であったハードロック・ヘヴィメタル界に歓迎を持って受け入れられた。セカンド・アルバムの成功により、ファースト・アルバムが本国から遅れること3年、1994年に日本でも発売となった。ただ、この日本での成功および『ムード・スウィングス』の成功が後々まで彼らを苦しめることになる。 セカンド・アルバムに伴うツアー終了後、サード・アルバムを収録、発表する。『ヴォイス・オブ・リーズン』と題されたこのアルバムは当時の音楽シーン(所謂モダン・ヘヴィネス)に合わせた、重くやや暗めのサウンドとなった。本国ではそれなりに歓迎されたが、日本ではセカンド、ファーストの順にアルバムが発表されたことや、『BURRN!』など音楽雑誌で一様に低調に評価されたためか、評価は今ひとつであった。現在でも、メンバーはお気に入りとして挙げることも多い一方、日本での評価は当時ほどではないがあまり宜しくない。 このアルバム発表直後マイク・ジオネットが脱退し、代わりのベーシストとしてローカルバンドで活躍していたバリー・ドナヘイが加入した。またアルバム発表後のツアーでは来日の予定も組まれ、1995年12月、初来日公演が行われた。このときのライブの模様はアルバム『ライヴ・イン・ジャパン』に収録され、1996年に発売された。 若干の休養を経て4thアルバムの制作に取り掛かるが、前作の売れ行き低迷を受け、人気低迷を懸念したレコード会社の意向により、明るくポップな曲も織り込んだ『ムード・スウィングス』のような作風を求められ(メンバーも後にそれを認める発言をしている)、デビュー前からのストックを元に選曲・アレンジを行うなど、本人達とすればやや不本意な形でアルバム制作が進められた。結局4thアルバムは1997年に日本などでは『ビリーヴ (Believe)』、本国カナダでは『Karma Cleansing』という異なるタイトル・収録曲・アートワークでリリースされた。日本盤である『ビリーヴ』では、「Believe」「Die Off Hard」「Staying Away」(ダレン・スミスがリードボーカルを担当)などの疾走感あふれる、メロディックな曲が歓迎され、高い評価を得た。1997年9月には2度目の来日を果たす。このツアー中に、チープ・トリックの「サレンダー」をカバーしたことがきっかけとなり、パワー・ポップ風の作風にシフトしていく。 1998年には5th『ビッグ・バン・セオリー』をリリースしたが、この作品ではバンドの売りの一つでもあるピート・レスペランスのテクニカルなギターソロや重厚なコーラスは影を潜め、ハードなパワー・ポップという作品となった。アルバム・リリース後すぐの1998年9月には早くも来日公演を行い、このツアーでファースト、セカンド両アルバムからの曲を多数演奏したが、一方「同じことは二度とやらない。過去の演奏はもう十分だ」といった、過去の楽曲に関しては一部を除き封印することを匂わせるような発言をしていた。 そして、1999年。バンドは一大決心を下す。日本以外ではバンド名を改名、「ラバー(Rubber)」と名乗る、つまり地域によりバンド名を変えて活動を行うという前代未聞の決定を下したのである。日本ではハーレム・スキャーレムで成功しているが、それ以外の国、特に北米では名前だけで時代遅れのヘアメタル・バンドだと思われていて音楽を聴いてもらえないことが、改名の最大の理由となった。 それを表すかのように、1999年に発表された6thアルバム『ラバー』はハリーのハードロック・ボーカリストでは一般的な喉から押し出すような太めの声を封印し、ピート・レスペランスもギターをシングルコイル・ピックアップ搭載のものに持ち替え、曲調もさわやかではあるが穏やかな、軽めのカントリーミュージックのようなサウンドとなり、声に聞き覚えがなければブリットポップと間違うようなサウンドであった。同年11、12月には公演数・箇所とも過去最大規模の来日公演が行われたが、前半ラバー・後半ハーレム・スキャーレムというような構成をとった。 またツアー後、ドラムのダレン・スミスの脱退、新ドラマー、クレイトン・ドーンの加入、日本においても「RUBBER」を名乗るという発表がなされた。
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