第1回の翻訳 (旧訳)
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「谷崎潤一郎訳源氏物語」の記事における「第1回の翻訳 (旧訳)」の解説
谷崎潤一郎による最初の翻訳は、1935年(昭和10年)9月に『源氏物語湖月抄』の本文を元にして着手された。山田孝雄の校閲を受けながら進められ、1939年(昭和14年)1月から1941年(昭和16年)7月にかけて中央公論社から『潤一郎訳源氏物語』全26巻として刊行された。これは今日「旧訳」「26巻本」などと呼ばれている。この現代語訳は、「源氏物語の現代語訳」としては1912年(明治45年)に出た最初の与謝野晶子訳より約20年遅く完成・公開されたものであるが、このときの与謝野訳はあくまで抄訳であり、省略のない完全な『源氏物語』の現代語訳としては3番目(現存するものとしては2番目)の与謝野訳とほぼ同時期に公開されたものであり、公開当時は与謝野訳よりもさまざまな形で話題になったものであり、さまざまな論評がなされている。 この翻訳は出版時には「潤一郎訳源氏物語」とされ、広告宣伝などでは「谷崎源氏」の呼称も使用されている。なお、初期にはタイトルとして「昭和口訳源氏物語」や「今様源氏物語」 あるいは「近体源氏物語」や「昭和本源氏物語」(1936年(昭和11年)12月11日付け谷崎潤一郎発山田孝雄宛書簡による) といったものも候補として挙げられていた。 この翻訳を作成するに際して、差し押さえを受けるほどに借金生活が恒常化していた谷崎は、中央公論社と「中央公論社は予想される印税のうち2万円程度を生活費として先払いする代わりに、谷崎側は源氏物語の翻訳中は他の仕事を一切入れない」という約束をしている。実際に谷崎は翻訳が終了するまでの間は1936年(昭和11年)1月および同年7月に改造社から刊行された雑誌『改造』の第18巻第1号および第7号に掲載された『猫と庄造と二人のをんな』を唯一の例外として、『源氏物語』の翻訳作業に専念している。これについては後述する。 1934年(昭和9年)2月16日付け中央公論社社長嶋中雄作宛て書簡において、谷崎は「五千円を保証していただけるならまあやってみても宜しゅう御座います」としている。このような交渉の結果、1934年(昭和9年)末ごろに谷崎は訳業を決意する。 谷崎は、この翻訳を行うにあたって山田孝雄の校閲を受けている。谷崎は当初から翻訳にあたってしかるべき専門家の校閲を受けることを願っており、その要望を受ける形で校閲者として山田孝雄という人物を選定し、また山田に校閲を受けるにあたっての仲介は中央公論社が行っている。1934年(昭和9年)12月4日、中央公論社編集者の雨宮庸蔵が山田に校閲依頼の手紙を出し、1934年(昭和9年)12月6日に山田が雨宮に承諾の返事を出している。1935年(昭和10年)5月に谷崎は山田の校閲を受けることを正式に依頼するため、雨宮とともに仙台に向かっている。1935年(昭和10年)9月に谷崎による執筆が開始され、1936年(昭和11年)3月には山田による校閲が始まる。 執筆自体の過程は以下の通りである。谷崎が最初に書き下ろした第1稿をもとに中央公論社がゲラを2部作成し、1部を谷崎に、1部を山田に送る。山田は送られたゲラに徹底的な校閲を施す。山田が校閲を施したゲラは谷崎の元に送られる。谷崎は山田から送られたゲラをもとに徹底的な書き直しを行って第2稿を作成する。この第2稿は第1稿と同様に中央公論社がゲラを2部作成し、1部を谷崎に、1部を山田に送る。これに対して山田が校閲を施したゲラを元に谷崎が再度書き直しを行って第3稿を作成し、これが最終稿となった。なお、谷崎が最初に書き下ろした第1稿は、現在も中央公論社の金庫の中に厳重に保管されているとされるが、谷崎の手元に置かれていた山田が校閲を施したゲラは、1945年(昭和20年)8月6日の空襲による谷崎の神戸の自宅の焼失にともなってすべて失われてしまったとされる(このことについて、現在富山市立図書館山田孝雄文庫に所蔵されている、1945年(昭和20年)9月3日付けの谷崎が山田に宛てた手紙において、山田が校閲を施し谷崎の手元に置かれていたゲラが全て焼失してしまったことを謝罪している)。1938年(昭和13年)9月9日に谷崎は第1稿3391枚を脱稿する。この原稿の完成は『東京朝日新聞』の(文芸面ではなく)社会面において報じられる。このようにして完成した『潤一郎訳源氏物語』は1939年(昭和14年)1月に刊行が開始された。 谷崎は自身の作業にあたって、当時最もよく使われた代表的な注釈書である吉澤義則の『対校源氏物語新釈』のほか、抄訳ではあるものの先行する現代日本語訳である与謝野晶子の最初の翻訳、アーサー・ウェイリーの英訳といったさまざまな資料を手許に集めており、必要に応じて参照していたと見られる。 このようにして完成した本は菊判の和装本、各巻平均160ページからなるもので、当時としてはかなり大きめである五号活字を使用し、さらに活字の4分の1ずつを下へずらす四分アキという方法で字間を広くとり、文字が一層大きく見えて読みやすくなるという贅沢な印刷を行っていた。このため後に改訳を行った際には、この旧訳の書籍の余白部分に校閲者が意見を書き込んだり、谷崎が新たな訳文を書き込んだりという方法をとることが出来た。この旧訳は、装幀の違いによって「普及版」のほかに、1000部限定の桐箱入り「豪華愛蔵版」があった。これは一括前金払いのみ80円、普及版は各巻1円の計26円(一時払い23円)であった。普及版には愛蔵版のような全冊を入れる桐箱は用意されていなかったが、後に8円で普及版用の並製桐箱が別売りされた。
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