第二次世界大戦期の警報
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第二次世界大戦期の日本では、1937年(昭和12年)に本土防空における民間防衛に関する法律「防空法」(昭和12年法律第47号)が制定され、同年の防空法施行令(昭和12年勅令第549号)で空襲警報の基本規定が置かれた。防空法施行令第7条では、「航空機ノ来襲ノ虞アル場合」に発令される「警戒警報」と、より切迫した「航空機ノ来襲ノ危険アル場合」に発令される「空襲警報」の2段階で警報が発せられる仕組みになっており、「防空警報」と総称した。当該地域を担当する防衛司令官、師団長、要塞司令官、鎮守府司令長官もしくは要港部司令官といった陸海軍の指揮官が警報を発令する権限を有した。うち警戒警報発令時には灯火管制の実施、空襲警報に移行した場合は速やかな防空壕への避難をするよう指示されていた。しかし、空襲を探知するレーダーや聴音機の絶対数の不足、各地に設けられた軍民双方の対空監視哨(目視にて敵機を監視する見張り台)と司令部間の通信設備の不備などの問題から、太平洋戦争中の日本本土空襲では必ずしもうまく機能しなかった。 詳細は「日本本土防空#日本軍」および「民間防衛#日本における民間防衛」を参照 戦時中の日本では空襲警報を国民に広報する手段としては、当時比較的普及していたAMラジオが活用された。空襲警報放送は警戒警報、防空警報共に定型化された放送内容を2度繰り返しアナウンサーが読み上げる形式で、最初に大きなブザー音が鳴り響いた後に『○○県 警戒警報』、防空警報の場合は『○○軍情報』(または軍管区情報)とまず読み上げられ、どこの軍管区から提供された何の情報かが明確に通知された上で、『○○時○○分、敵の編隊(または梯団)○○機は、△△(地名)を経て××(方角)へ進んでおります。』『○○時○○分ごろ、△△(地名)へ来るものと思われます。』『△△(地名)の高射砲が斉射を行いますから、注意して下さい。』など、軍事知識の乏しい国民でも理解しやすい比較的平易な短文(東部軍管区では文語体であったが、中部軍管区では口語体が用いられた)で構成された警報文が読み上げられた。周波数はNHKラジオ第一放送のものが利用されており、緊急時には一般の放送に割り込む形で空襲警報放送が挿入され、警報放送内でもその旨の断りが読み上げられているが、後に本土空襲が激化すると軍司令部内にアナウンサーが24時間常駐して空襲警報放送を行う体制となった。 「NHKラジオ第1放送#概要」および「大本営発表#制度」も参照 防空壕などへ避難中の国民はラジオ受信機から逐一流れてくる空襲警報放送に注視する事で、現時点で何が起きていて、それに対して帝國陸海軍がどのような対応を行っているかが伝わる仕組みになっており、時として軍内部でも通信手段に乏しい場所で勤務する将兵達は、空襲警報放送を通じて全体の戦況把握を行う事があったという。これらの空襲警報放送は当のNHKでも録音がされておらず、戦後長きに渡って現存する音源は存在しないものとされていた。その為、戦後に製作されたテレビドラマや映画などでは、当時の文書記録や市民の証言などを元に製作された再現放送を使用していた。しかし2010年代に入って、戦時中神戸市東灘区にて旧制中学に通っていた熊本市在住の男性が、吹込盤にて密かに録音していた戦時中のラジオ放送をNHKアーカイブスに寄贈、その中に1945年(昭和20年)2月4日昼の神戸へのB-29編隊の空襲と、同年2月18日夜に大阪に単独機が飛来した際に中部軍司令部より発令された空襲警報放送が含まれており、2016年現在これが日本国内に現存する唯一の音源となっている。これらの空襲警報放送は2014年および2015年の終戦の日にラジオ深夜便にて「残された「空襲警報」~録音盤は語る~」の題名にて放送された。 1945年8月21日、防空総本部は翌日22日午前零時をもって防空実施を終止する命令を発し、日本における第二次世界大戦時の空襲警報は終了した。
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