第二次世界大戦期および戦後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 23:03 UTC 版)
「ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団」の記事における「第二次世界大戦期および戦後」の解説
ナチス・ドイツによる1938年のオーストリア併合は、ウィーン・フィルの栄光の歴史に暗い影を投げかけた。ナチスによりウィーン・フィルハーモニー協会に解散命令が下ったのである。フルトヴェングラーらの奔走により解散自体は免れたが、その後は組織改編を断行せざるを得ず、ナチス党員である楽員が幹部に就任した。そして一部のユダヤ人の配偶者を持つ楽員や「半ユダヤ人」の楽員は残留を許されたものの、多数のユダヤ系楽員が退団に追い込まれるという大きな痛手を負った。ユダヤ系楽員のうちコンサートマスターのアルノルト・ロゼーなどのように大部分はイギリスやアメリカなどに逃れたが、やはりコンサートマスターのユリウス・シュトヴェルトカを含む6人は強制収容所に送られ、そこで亡くなった。また、父がユダヤ人であるブルーノ・ワルター、妻がユダヤ系のエーリヒ・クライバー、ナチズムを含むファシズムに反対の立場を明確にしていたアルトゥーロ・トスカニーニなどは皆アメリカ大陸へ逃れてしまい、これらの大指揮者による演奏は不可能になってしまった。そのためフルトヴェングラーや国立歌劇場総監督のカール・ベームらによってウィーン・フィルの活動が続けられた。 その一方で、後にコンサートマスターに就任したヴォルフガング・シュナイダーハン、ワルター・バリリ、ヴィリー・ボスコフスキーといった若い有能な奏者も入団した。 演奏活動の面でもナチスのプロパガンダに大いに利用され、ドイツやオーストリアの各地の軍需工場などで多くの慰労演奏会を行った。1945年4月、第二次世界大戦におけるナチスの敗北が目前に迫ると、ソ連軍がナチスを敗走に追い込みつつ、ウィーンの目前に迫った4月2日に、ウィーン・フィルはクレメンス・クラウスの指揮により戦中最後の演奏会を行った(曲目はブラームスの「ドイツ・レクイエム」)。演奏会終了後、フルトヴェングラーがかつて残した助言に従い、ムジークフェラインザールを護衛するという名目で「ウィーン・フィルハーモニー国防団」を結成し、楽員のほぼ全員が空襲の激しいウィーン市街に残留した(一部のナチス党員であった楽員はリンツなどへ逃亡した)。彼らはブルク劇場や消防署などの地下通路で生活し、ソ連軍が進攻するまでの時間を過ごした。ソ連軍によるウィーン進駐後は、コンサートマスターでロシア語の堪能なフリッツ・セドラックを楽団長として、オーストリア新政府やソ連軍と交渉しつつ、ウィーンにおける文化活動の再開、すなわち演奏会の再開に向けて始動した。オーストリア独立宣言の日(4月27日)に、やはりウィーンに残留していたクレメンス・クラウスの指揮の下、コンツェルトハウス大ホールにて解放記念コンサートを催した(曲目はベートーヴェンの「レオノーレ」序曲第3番、シューベルトの交響曲「未完成」、チャイコフスキーの交響曲第5番)。 しかし、戦後処理としてナチス党員の楽員の半分以上は退団となり、また本業のオペラの本拠地である国立歌劇場は空襲で焼けてしまい(1955年に再建されるまではフォルクスオーパーやアン・デア・ウィーン劇場を仮小屋とした)、フルトヴェングラーやクレメンス・クラウス、ハンス・クナッパーツブッシュ、カール・ベームなどの重要な指揮者たちはナチス協力疑惑のため連合国軍により数年間指揮活動を停止させられたことにより、ウィーン・フィルの活動は困難を極めた。 ユダヤ系指揮者ヨーゼフ・クリップスなどの尽力により、徐々にそのペースを回復し、大指揮者たちがウィーンに再び戻ってきた1940年代の終わりから往年の栄光と輝きを取り戻した。諸外国への演奏旅行も再開された。1947年にはエディンバラ音楽祭に出演(指揮は1938年以降共演が途絶えていたブルーノ・ワルター)、1956年には初来日した。中編成の規模で指揮者は作曲家のパウル・ヒンデミット、東京宝塚劇場での公演であった。同年11月にはカール・シューリヒト、アンドレ・クリュイタンス(急逝したエーリヒ・クライバーの代役)の同行でアメリカへの楽旅が実現し、大きな成功を収めた。1997年2月より、それまで長らく受け取ってきたオーストリア政府からの補助金を受け取らないことを決定している。2005年にはWHOの親善大使に任命されている。
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