第一海軍卿就任・ドレッドノート建造
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「ジョン・アーバスノット・フィッシャー」の記事における「第一海軍卿就任・ドレッドノート建造」の解説
1902年、海軍人事を握る第二海軍卿(英語版)(Second Sea Lord)としてイギリスに戻り、1903年にはポーツマス海軍工廠(Portsmouth dockyard)の司令長官となった。1905年10月には、海軍の作戦指揮を握る武官のトップ、第一海軍卿(First Sea Lord、他国における軍令部長)に任じられた。 その時までにはフランスとの関係が緊密になる一方で、ドイツとイギリスは海軍軍備拡張競争に取りかかっていた。フィッシャーは海外駐留海軍を縮小する一方で、強力な本国艦隊を創設することを決めた。世論が騒然とする中で、彼は「戦うには弱すぎ、逃げるには遅すぎる」("too weak to fight and too slow to run away")、また「守銭奴の無駄ながらくたの買いだめ」("a miser's hoard of useless junk")と呼ぶ90隻の時代遅れで小さな軍艦を鉄屑にするべく売り払い、さらに64隻を予備役とした。これによって本国海域の大型新鋭艦の数を増やすための人員と資金が使えるようになった。 彼は高速で単一巨砲を備えた戦艦の開発の推進者だった。彼は軍艦設計委員会を指導して新しい時代の戦艦の最初である「ドレッドノート」の概略設計を押し進めた。彼の委員会はまた、防御装甲を軽減する代わりに高速を実現した、ドレッドノートに相似した単一巨砲の新型装甲巡洋艦を生みだした。それは巡洋戦艦(battlecruiser)と呼ばれ、「インヴィンシブル」がその最初の艦となった。ただし、この「速度は最大の防御」という彼の持論はユトランド沖海戦におけるインヴィンシブルなどの巡洋戦艦の喪失により破綻することとなった。彼はまた、イギリス海軍への潜水艦の導入と、燃料の石炭から石油への転換にも力を注いだ。 人事面では、兵機一系化改革を進め、機関科士官の待遇改善を試みた。 フィッシャーは1909年に男爵位を授けられ1910年に引退した。第一次世界大戦の勃発に際して、ドイツとの結びつきの強さを忌避されたルイス・アレグザンダー・マウントバッテン(改姓前はバッテンバーグ)に代わり第一海軍卿に就任した。フィッシャーは大きな被害を出し完全な失敗に終わったガリポリ上陸戦における責任問題を巡りウィンストン・チャーチル海軍大臣との間で苦々しい論争を繰り広げた末、1915年5月15日に辞任した。後にチャーチルも辞任を余儀なくされた。フィッシャーはドイツのバルト海沿岸への上陸作戦を提案しており、そのためのフューリアスなどの「ハッシュ・ハッシュ・クルーザー」を開発したが、結局この作戦は中止されてこれらの艦艇は空母へ転用された。 彼は第一次世界大戦が終わるまでGovernment's Board of Invention and Researchの議長を務めていた。彼は妻フランセスを亡くした2年後の1920年に癌で死去した。遺体はウェストミンスター寺院での国葬ののち荼毘に付され、住まいのあったノーフォークのキルヴァーストン(英語版)にあるセントアンドリュー教会墓地の妻の墓の隣に埋葬された。 フィッシャー男爵の爵位は、2015年現在、4代目のパトリック・ヴァヴァサー・フィッシャーが相続している。
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