競馬評論家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/11 13:33 UTC 版)
競馬評論家(けいばひょうろんか)とは、競馬に関する評論活動を業とする者。
日本
解説
日本においては、おもにトラックマンや文化人、芸能人、引退した騎手や調教師などのホースマンなどが競馬に関する言論活動を行うなかで競馬評論家として認識されていくことが多い。またメディアによって競馬のギャンブルとしての側面が強調される傾向が強く、ギャンブルから切り離された競馬評論はまれである。競馬評論家がスポーツ新聞やテレビ・ラジオなどにおいて予想行為を行うことも多い。
とくに日本の場合、直接の競馬関係者は競馬法や公正確保などとの兼ね合いもありその言動に大きな制約が付いて回ることも多いため、ときに競馬評論家はマスコミから事実上の競馬関係者の代弁者としての役割を求められることもある。
歴史
元アナウンサーの早坂昇治によれば、日本で最初に競馬評論家を名乗った人物は日本短波放送の競馬中継で解説を務めた茂木幹夫[1]で、1957年、新聞社退職により肩書きを失ったのを機にみずから命名したという[1]。
元騎手や元調教師など、現場経験のある競馬評論家も存在しているが、日本における第1号とされる人物は騎手時代に前述の競馬中継に解説者として出演した阿部正太郎[1]をのぞけば1963年に騎手を引退して競馬評論家に転じた渡辺正人(通称:ナベ正)であり、日本の競馬全体の歴史に鑑みた場合にはそれほど古い存在ではない。
米国
アメリカ合衆国では競馬ジャーナリストや競馬コラムニストとして紹介されることもある。
著名な競馬ジャーナリストに、レイ・ポーリックや、ベイヤー指数を考案したアンドリュー・ベイヤーがいる[2][3]。
出典
競馬評論家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 13:52 UTC 版)
競馬評論家としても積極的に活動していた。「プロの調教師が出してくる以上、八分以上の出来」 にあるとして、出走各馬の調教を見ないで予想したことから、書斎派の筆頭格であった。サンケイスポーツや、1980年代後半まで「巨泉でバッチリ」のタイトルで競馬エイトの競馬予想のコーナーで執筆していたほか、『中央競馬ダイジェスト』(フジテレビ系・土曜深夜放送分)や『土曜競馬ニッポン・日曜競馬ニッポン』(ニッポン放送)に出演していた。 「土曜競馬ニッポン・日曜競馬ニッポン」は1976年4月にニッポン放送が鳴り物入りでスタートさせるが、開始前の巨泉はラジオ関東の「日曜競馬実況中継」に出演していた。移籍のきっかけは深澤弘が日参して口説き落としたものであり、巨泉は深澤について「あんまり好きじゃなかった」と述べたことがある。 巨泉は当時、競馬ファンに最も影響力を持つ論客として知られていた。ファン目線での評論が多く、しばしば競馬界全体を批判することもあった。その最たる例は第1回ジャパンカップにヨーロッパの馬を招待しなかったことに対して、「何故、イギリスやフランスなどから呼ばないのか?」と日本中央競馬会(JRA)の機関誌『優駿』やサンケイスポーツで痛烈に批判したことである。また、天皇賞の「勝ち抜き制度」に対しても、競馬エイトの「巨泉でバッチリ」で、批判を繰り返していた。 「府中の千八、展開要らず」、「競馬は所詮いい加減なもの」という競馬格言は、巨泉が作ったものとされている。血統と展開と騎手で推理し、しばしば長距離の逃げ馬を的中させていた(トーヨーアサヒが勝った1973年のダイヤモンドステークスなど)。谷岡一郎が「本命2,000円、対抗1,000円、穴・大穴・枠流し500円」で巨泉の予想と結果をGIレースのみ計算した結果、戻って来る金は賭け金の80.83%であった(谷岡一郎『ツキの法則』[信頼性要検証])。これでは負け越しだが、競馬の控除率が25%前後であることから、平均してそれ以上の戻りがあった巨泉の予想を優れたものと結論づけている。 中央競馬の馬主でもあり(本名の大橋克巳、オーケー商事名義)、1973年には所有馬のロックプリンスが東京優駿(日本ダービー)に出走している(27頭中11着)。「タケシツービート」という名前の馬も所有していた。 シンボリ牧場オーナーだった和田共弘、騎手・調教師だった野平祐二と親交が深く、スピードシンボリが海外遠征した際には、ロンシャン競馬場(フランス・パリ)へ両者と行動を共にした。 また、日本ダービーに出走する競走馬を登録するために馬主が支払う登録料の増額を実現させたのも巨泉である。登録料の上限が1万円だった当時、「1万円だったらまあいいや、みたいなダメもと出走が出て来てレベルが下がる」と苦言を呈し、レースのレベルを高め、本当に勝ちたい馬だけが出走できるように仕向けて競馬法の改正、登録料増額につなげた。 1988年、自身のセミリタイアから1年早く、競馬評論からセミリタイアした。きっかけは、1988年の天皇賞(秋)の「オグリキャップとタマモクロスの一騎討ちムードの状況で、登録料が1万円と安いから勝負になりそうもない馬が何頭も出てきている」といった内容を、巨泉が当日のラジオの中継で話したことが発端であった。それに対し、同競走にレジェンドテイオーを出走させていた美浦の田村駿仁 調教師が『週刊競馬通信』(競馬通信社)に、「大橋巨泉氏に物申す」と題する抗議文を送付し掲載された。それに対し巨泉がサンケイスポーツのコラムで反論し、さらに田村が反論するという論争にまで発展したが、やりとりの中で巨泉は競馬サークルの閉鎖性やぬるま湯体質に失望し、サンケイスポーツ紙上にて休筆を宣言した。なお、田村とは数年後に和解し、田村は巨泉の追悼記事に週刊Gallopで和解した時の思い出を記載し、巨泉を評価している。 競馬評論家のセミリタイア後、2006年に『keiba01』(ケイバゼロワン、2006年12月20日発行)誌上において約20年ぶりに競馬をテーマに、「シンザンとスピードシンボリ」と題するコラムを執筆した。 2009年の著書『やめたら』では、三連単馬券について言及し、「三連単はギャンブラーの射幸心を煽る」と反対、否定的な考えを示した。また「マフィアのボスは三連単は買わない」とも言及した。また、三連複馬券や、馬単馬券についても同様に反対、否定的な見解を示した。 ディープインパクトの引退が発表された際、ファンや各マスコミから「来年も走ってほしかった」という意見が多勢だった中、巨泉は「あんな小さい体で来年も現役だの、海外遠征だの冗談じゃないよ!!」と陣営の引退の判断を支持した。その他、当時騎手だった藤田伸二の著書『騎手の一分』の感想を『週刊現代』の自身のコーナー「今週の遺言」(2013年7月8日発売号)で述べたりもしていた。
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