競合の末の合併から戦時統合まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 16:43 UTC 版)
「箱根登山バス」の記事における「競合の末の合併から戦時統合まで」の解説
震災後、富士屋自働車は復旧とともに車両の改良に注力した。1924年には当時としては超大型となる25人乗りのバスを導入し、1925年から実際に運行を開始している。また、1924年には三島・沼津にまで路線網を拡大したほか、震災以来中断されていた横浜と箱根を結ぶ路線の運行も再開されている。一方の小田原電気鉄道も1927年までにはほぼ復旧している。なお、小田原電気鉄道は1928年(昭和3年)1月にいったん日本電力に合併したあと、同年8月に再度箱根登山鉄道として分社化された。 詳細は「箱根登山鉄道#合併の後再分離」を参照 鉄道やバスの復旧とともに、再び激しい乗客争奪が展開されることになった。小田原駅前では富士屋自働車の社員は「乗り換えなしで箱根へ」と宣伝、一方の箱根登山鉄道の社員は「電車の方が静かで安い」と声を上げ、観光客を自社へ誘導した。時には観光客の手を引っ張りあい、ひどい時には互いの社員同士が殴り合いを始める始末だった。 富士屋自働車の高級車「ホワイト」 箱根登山鉄道の高級車「サウラー」 箱根登山鉄道が1929年には国府津まで、1931年には箱根湯本と箱根町を結ぶ自社鉄道線と並行する路線バスの運行に至り、小田原駅前に乗り入れるようになると、この2社の競合はさらにエスカレートし、現地での社会問題にまで発展した。富士屋自働車はアメリカ製の高級バス「ホワイト」を導入、対する箱根登山鉄道はスイス製の高級バス「サウラー」を導入し、女性の車掌が自社のバスに乗せようと大声を上げる有様であった。 ここにきて、小田原市や警察署長、さらには鉄道省が両社の合併を再三にわたって勧奨する事態になり、1932年には京阪電気鉄道の社長であった太田光凞の仲介により両社のバス事業を統合することになった。こうして、1933年1月に箱根登山鉄道のバス事業全てが富士屋自働車に譲渡され、富士屋自働車は社名を富士箱根自動車に変更した。1934年には足柄自動車を傘下に組み入れた。 「箱根登山鉄道#小田原から強羅まで直通運転」および「箱根登山鉄道鉄道線#登山電車が小田原へ乗り入れ」も参照 なお、富士屋自働車は1931年には省線との連帯運輸を開始したが、乗合自動車が省線と連絡運輸を行ったのは、日本ではこれが初めての事例である。 しかし、戦時体制の波は富士箱根自動車にも影を落とすことになる。1935年(昭和10年)に電力統制が行われると、富士箱根自動車は箱根登山鉄道とともに日本電力の傘下に入った。戦時体制が強化されると、不要不急の路線は休止を命じられることになり、鉄道並行路線や観光路線などはこれによって休止されたが、これは全路線の6割強に達した。さらに、1942年(昭和17年)に強制統合の通牒が出され、統合母体として箱根登山鉄道が選ばれることになり、1944年(昭和19年)7月31日付で富士箱根自動車と足柄自動車は箱根登山鉄道に合併となった。加えて、箱根登山鉄道の社長に東京急行電鉄社長の五島慶太が就任し、かくして箱根登山は大東急の影響下に置かれることになった。 詳細は「箱根登山鉄道#戦時体制下」および「箱根山戦争#堤康次郎と五島慶太」を参照 「東京急行電鉄#「大東急」の時代」および「東急バス#東横・目蒲の合併 - 大東急へ」も参照 本項では以下、単に「登山バス」とした場合は箱根登山鉄道および箱根登山バスをさすものとする。
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