堤康次郎と五島慶太
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 13:27 UTC 版)
その後、1933年1月に箱根登山鉄道はバス事業全てを富士屋自働車に譲渡し、富士屋自働車は社名を富士箱根自動車に変更した。また、1938年には箱根遊船と駿豆鉄道が合併して駿豆鉄道箱根遊船となった が、戦時体制となり「遊船」という社名が問題視された ことから、1940年に駿豆鉄道に社名を変更した。また、国が推進した電力国家管理政策により、箱根登山鉄道・富士箱根自動車の親会社であった日本電力は、やはり日本電力傘下にあった箱根観光が運営していた強羅ホテルとともに箱根登山鉄道と富士箱根自動車を他社へ譲渡する意向を示した。 この当時の堤康次郎は「箱根の交通機関を西武だけが独占するのは好ましくない」と考えており、また当時は東京横浜電鉄の五島慶太との関係も比較的良好であった。そのため、堤康次郎は五島慶太が箱根の観光開発に着手することを期待して、五島慶太に対して「箱根登山鉄道を買収したらどうか」と勧めていたのである。五島慶太は武藤嘉門の仲介によって、1942年に箱根登山鉄道・富士箱根自動車・箱根観光の株式一切を日本電力から購入し、箱根登山鉄道の社長に就任した。 しかし、五島慶太は1945年12月に、強羅ホテルを運営していた箱根観光を500万円で国際興業に譲渡した。これは、当時の労働攻勢によって資金繰りのために売却したものであった が、これは堤康次郎の期待に反することで、「五島慶太は観光事業に取り組む姿勢がない」と解釈されたのである。これ以後、堤康次郎と五島慶太との関係は疎遠化していった。
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