登山電車が小田原へ乗り入れ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 18:40 UTC 版)
「箱根登山鉄道鉄道線」の記事における「登山電車が小田原へ乗り入れ」の解説
日本電力傘下となってから、小田原から強羅まで鉄道線を直通運転する計画が実行に移された。この計画では小田原から風祭までは軌道線とは別に線路を敷設し、風祭から箱根湯本までは専用軌道だった軌道線を改修するというものであった。 建設中の小峰隧道 板橋陸橋での試運転 1927年4月1日に新宿駅を起点とする小田原急行鉄道(小田急)が小田原駅まで開通したことを受けて、箱根登山鉄道では小田原駅構内への登山電車乗り入れを申請、1930年には小田急との連絡について協定を結んだ。1931年11月から風祭と箱根湯本を結ぶ区間の改修工事を行い、小田原駅への乗り入れが認められた1934年からは小田原と風祭を結ぶ区間の工事にも着手、1935年9月21日にすべての工事が完了した。小田原駅構内への乗り入れに際しては、小田急の多大な協力が得られたとされている。これと並行して、直通運転の開始後に予想される乗客増への対応策として、2両編成での運転についても検討が進められることになった。しかし、鉄道線の線路は最小曲線半径が30 mという厳しい線形であり、勾配も日本最急となる80 ‰で、安全な連結器を開発する必要があった。そこで、鉄道省に連結器についての指導を仰いだ結果、芝浦製作所の設計による連結器の試作が実現した。数か月にわたり連結での試運転を行い、安全性も確認されたため、チキ2形の連結器を全て交換した。 こうして、同年10月1日より小田原駅と強羅駅の間において、登山電車の直通運転が開始された。これによって、小田原と強羅は最短50分で結ばれるようになり、箱根湯本駅で軌道線と乗り換えていた当時より20分の時間短縮が実現した。 戦時体制に入ってからは、1942年5月30日付で五島慶太が社長に就任するなどの出来事はあったが、鉄道線には大きな動きはなく、戦災による被害もほとんどなかった。第二次世界大戦終戦後しばらくの間、登山電車のうち2両が進駐軍専用車両となった。1948年9月15日にはアイオン台風が上陸したことに伴い、鉄道線の橋梁2箇所が流失、それ以外にも土砂の崩壊による軌道の埋没などがあり、復旧は翌1949年7月6日までずれ込んだ。
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