小田原から強羅まで直通運転
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 02:22 UTC 版)
「箱根登山鉄道」の記事における「小田原から強羅まで直通運転」の解説
新会社として再出発した箱根登山鉄道が最初に打ち出したのは、 小田原から強羅まで登山電車を直通運転することであった。 この構想は、関東大震災の直後には既に打ち出されていたが、その当時の小田原電気鉄道の経営状態では実現不可能であった。その一方、不況下であるにもかかわらず、1928年ごろからは各地から箱根への観光客を輸送する貸切バスが増加していた。これは登山電車やの収入減少につながるものであった。 さらに、地元小田原では、富士屋自働車との乗客争奪が続いていた。軌道線の小田原駅は国鉄の小田原駅前に位置していたが、駅前には富士屋自働車の乗り場も設けられていた。そのため、富士屋自働車は「乗り換えなしで箱根へ」と、一方の箱根登山鉄道は「電車の方が静かで安い」と、観光客を自社へ誘導するべく客引きを行っていた。時には社員同士が殴り合いを始める有様だった。 こうした状況の解決策や、将来の発展を考慮して、登山電車の直通運転計画が取り組まれるようになった。 折りしも、1927年4月1日からは新宿を起点とする小田原急行鉄道(小田急)が小田原まで開通していた。これを受けて、箱根登山鉄道では小田原駅構内への乗り入れを申請、1930年には小田原駅での連絡について小田急と協定を結んだ。 建設中の小峰隧道 板橋陸橋での試運転 工事については、まず1931年11月から風祭と箱根湯本を結ぶ区間の改修工事を行い、小田原駅への乗り入れが認められた1934年からは小田原と風祭を結ぶ区間の工事にも着手した。また、これと並行して、直通運転の開始後に予想される乗客増に対応すべく、2両編成での運転についても検討が進められることになった。 1935年9月21日にすべての工事が完了、2両編成での運行を行なうための連結器についても開発が終了した。それを受けて、同年10月1日より小田原と強羅の間における登山電車の直通運転が開始された。これに伴い、軌道線の箱根板橋と箱根湯本の間は前日の9月30日限りで営業を終了した。 なお、これより少し遡る1932年には京阪電気鉄道の社長であった太田光凞の仲介により両社のバス事業を統合することになっており、1933年1月に箱根登山鉄道のバス事業全てが富士屋自働車に譲渡され、富士屋自働車は社名を富士箱根自動車に変更した。これによって、小田原での箱根登山鉄道と富士屋自働車との乗客争奪は終結している。また、1938年には日本電力の子会社であった箱根観光によって「強羅ホテル」が完成し、同年7月21日から営業を開始した。
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