小田原における近代茶道の展開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/06 05:14 UTC 版)
「小田原三茶人」の記事における「小田原における近代茶道の展開」の解説
その第一人者として『利休以来の大茶人』と評された三井物産社長 益田鈍翁が、1906年(明治39年)小田原の板橋に別邸「掃雲台」を営んだことから、多くの実業家、政治家、軍人などが小田原に居宅や別荘を建て、小田原に近代茶人文化が興隆することになった。 1918年(大正7年)鈍翁の茶友で中外商業新報(後の日本経済新聞)社長 野崎幻庵が、小田原の十字町諸白小路(今の小田原市南町)に「自怡荘(茶室・葉雨庵)」を、次いで天神山伝肇寺裏(今の小田原市城山)に「安閑草舎(山房)」を造営すると、鈍翁・幻庵を中心として、小田原を舞台とした近代茶人文化はますます盛んになったが、1938年(昭和13年)に鈍翁が、1940年(昭和15年)には幻庵が相次いで他界し、さらに太平洋戦争の影響で一時小田原の近代茶人文化は停滞を余儀なくされた。 1946年(昭和21年)、鈍翁に導かれて茶の湯の世界に入った松永耳庵が、「掃雲台」近くに「松下亭」(後に「老欅荘」)を造営し移住したことから、再び耳庵を中心として近代茶道が再興され、耳庵が1971年(昭和46年)に亡くなるまで継続された。なお耳庵の居宅は現在は小田原市の所有となり「松永記念館」として公開されている。
※この「小田原における近代茶道の展開」の解説は、「小田原三茶人」の解説の一部です。
「小田原における近代茶道の展開」を含む「小田原三茶人」の記事については、「小田原三茶人」の概要を参照ください。
- 小田原における近代茶道の展開のページへのリンク