小田原の滄浪閣とは? わかりやすく解説

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小田原の滄浪閣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/23 22:39 UTC 版)

滄浪閣」の記事における「小田原の滄浪閣」の解説

伊藤博文は、初代内閣総理大臣初代枢密院議長等の要職重ねてきたが、大日本帝国憲法草案一段落した1889年明治22年)に、父・十隠居地として小田原町緑1丁目8番地(現:小田原市栄町)に居宅建設し自身枢密院議長辞任意志表明して小田原への永住決めていたとみられている。同年10月海岸御幸の浜に面した小田原町十字643番地(現:小田原市本町)に別邸建設開始した1890年明治23年10月にその別邸完成し、「滄浪閣」と命名された。小田原の地に本格的に腰を据えようとした伊藤意に反して同年伊藤貴族院議長就任1892年明治25年)には第2次伊藤内閣組閣することになり、その間には日清戦争もあるなど、静観日々を送ることができない状況にあった伊藤がこの滄浪閣にきている時には政府要人たちが次々と東京小田原間を往来し日清戦争に関する重要問題滄浪閣処理したことがあるほどであった1893年明治26年)には、明治天皇皇女常宮昌子、周宮房子内親王避寒のために滄浪閣滞在した。 その1893年明治26年)に、伊藤法典調査会設置し、自らその総裁となって民法改正着手する起草委員選ばれ穂積陳重富井雅章、梅謙次郎の3名の法学博士は、1894年明治27年)の5月から秋まで滄浪閣一室閉じこもり民法典原案立案執筆行った。こうして1898年明治31年7月に「民法」全五編が施行され、この地は「民法発祥の地とされることになった。 しかし、伊藤民法施行待たずに、1897年明治30年)、滄浪閣の名と共に大磯町移っていった。建物は「養生館」として西村圭二の手リゾート旅館として再開されることになったが、1902年明治35年)に小田原町沿岸襲った小田原大海嘯により大破し、その残部1923年大正12年)の関東大震災壊滅した。現在、その跡地には、伊藤胸像滄浪閣跡の碑が建っている。

※この「小田原の滄浪閣」の解説は、「滄浪閣」の解説の一部です。
「小田原の滄浪閣」を含む「滄浪閣」の記事については、「滄浪閣」の概要を参照ください。

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