大磯の滄浪閣
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1890年(明治23年)頃、伊藤が小田原の滄浪閣へ行く途中、大磯に立ち寄り、その白砂松林の大磯が気に入り、梅子夫人の病気療養のためにも、この地に別荘を建築することに決めた。別荘が完成すると、小田原の滄浪閣を引き払い、大磯の別荘の方を「滄浪閣」と名づけた。1897年(明治30年)10月1日、伊藤は本籍を東京から大磯町に移したため、滄浪閣は伊藤の別荘ではなく本邸となった。 敷地面積は18,150平方メートル(5,500坪)。建物は日本間と洋間が3つあり、日本間は10畳と8畳に仕切ってあった。一方、3つの洋間は英国調となっている。廊下等には明治天皇からの下賜品である絵襖が飾られている。日本画家湯川松堂により「源義家後三年の役」「静御前の舞」「太田道灌鷹狩り」「野見宿禰の相撲」の各場面が描かれたものである。 また、伊藤は邸内に尊敬していた先輩の三条実美、岩倉具視、大久保利通、木戸孝允を祀った四賢堂を造り、東西の両壁に掲げた四賢侯の像に向かい瞑想に耽ったりしていた(伊藤の死後、梅子夫人が伊藤博文を加えて五賢堂となった)。 伊藤が本宅を構えた当時の大磯には、山縣有朋や西園寺公望、大隈重信等の政財界要人が別荘を構え、滄浪閣への来訪者も絶えなかった。1907年(明治40年)頃の大磯には、150戸以上の別荘が存在したといわれる。 大磯在住時の伊藤は素朴を好み、散歩の際は鳥打帽に着物の簡単な服装で出かけた。ふらりと農家に立ち寄っては、米麦の値段や野菜の出来具合を聞いたり、夜の海岸へ出かけて地引網の見物をし、イカ釣り船の漁夫に話しかけたりしたという。地元の祭りの時には、四斗樽の鏡を抜いて酒を振舞い、地域との融和を心がけていたという。 伊藤の死後は梅子夫人が居住したが、1921年(大正10年)に養子の伊藤博邦により朝鮮の李王家に譲渡されて別邸となった。1923年(大正12年)の関東大震災では建物が倒壊するが、焼失は免れ、直ちに再建された。第二次世界大戦終戦直後は一時、米軍に接収され、1946年(昭和21年)2月、李垠から政治家・楢橋渡へ、さらに1951年(昭和26年)5月には西武鉄道に売却された。1954年(昭和29年)12月に宿泊施設として開業し、大磯プリンスホテルの別館となる。1960年(昭和35年)4月、五賢堂が元首相・吉田茂邸内へ遷座された(吉田茂は五賢堂に西園寺公望を合祀した。吉田の死後、吉田茂も加えられて七賢堂と改められた)。
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