大磯の滄浪閣とは? わかりやすく解説

大磯の滄浪閣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/23 22:39 UTC 版)

滄浪閣」の記事における「大磯の滄浪閣」の解説

1890年明治23年)頃、伊藤小田原の滄浪閣へ行く途中大磯立ち寄り、その白砂松林大磯気に入り梅子夫人病気療養のためにも、この地に別荘建築することに決めた別荘完成すると、小田原の滄浪閣引き払い大磯別荘の方を「滄浪閣」と名づけた。1897年明治30年10月1日伊藤本籍東京から大磯町移したため、滄浪閣伊藤別荘ではなく本邸となった敷地面積18,150平方メートル(5,500坪)。建物日本間洋間3つあり、日本間10畳と8畳に仕切ってあった。一方3つの洋間英国調となっている。廊下等には明治天皇からの下賜品である絵襖が飾られている。日本画家湯川松堂により「源義家後三年の役」「静御前の舞」「太田道灌鷹狩り」「野見宿禰相撲」の各場面描かれたものであるまた、伊藤邸内尊敬していた先輩三条実美岩倉具視大久保利通木戸孝允祀った四賢堂を造り東西の両壁に掲げた四賢侯の像に向かい瞑想耽ったりしていた(伊藤死後梅子夫人伊藤博文加えて賢堂となった)。 伊藤本宅構えた当時大磯には、山縣有朋西園寺公望大隈重信等の政財界要人別荘構え滄浪閣への来訪者絶えなかった。1907年明治40年)頃の大磯には、150戸以上の別荘存在したといわれる大磯在住時の伊藤は素好み散歩の際は鳥打帽着物簡単な服装で出かけた。ふらりと農家立ち寄っては、米麦値段野菜出来具合聞いたり、夜の海岸へ出かけて地引網見物をし、イカ釣り船の漁夫話しかけたりしたという。地元祭り時には四斗樽の鏡を抜いて酒を振舞い地域との融和心がけていたという。 伊藤死後梅子夫人居住したが、1921年大正10年)に養子伊藤博邦により朝鮮李王家譲渡され別邸となった1923年大正12年)の関東大震災では建物倒壊するが、焼失免れ直ち再建された。第二次世界大戦終戦直後一時米軍接収され1946年昭和21年2月李垠から政治家楢橋渡へ、さらに1951年昭和26年5月には西武鉄道売却された。1954年昭和29年12月宿泊施設として開業し大磯プリンスホテル別館となる。1960年昭和35年4月、五賢堂元首相吉田茂邸内遷座された(吉田茂は五賢堂西園寺公望合祀した吉田死後吉田茂加えられ七賢堂と改められた)。

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