穂積八束の法思想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 21:34 UTC 版)
留学前は二大政党の交替による政党内閣制を許容していた八束だったが、留学先のドイツはビスマルク時代の末期に当たり、議会は特定階層の利益代弁者と化し、政府は超然主義に立って議会と対立しつつ、議会外の労働者層に対しては、社会政策と社会主義者鎮圧法の飴と鞭政策を採っていた。そこで、八束は、国家の責務は、貧民を現実に食わせることであり、議会の求める権利・自由は虚名に過ぎないと考えるようになる。そして、強力な支配者が無ければ弱肉強食の争いに陥るという性悪説的立場に立ちつつ、ホッブズ流の国権・家長権による支配の確立を主張したのであった。 「パターナリズム」も参照 八束が理想とした日本社会が実際どこまで日本的だったかは疑問もあり、日本がタテ社会でヨーロッパがヨコ社会という観察は妥当にせよ、日本型タテ社会の君主が絶対的支配者ではなく、倫理道徳に拘束された調整者に過ぎなかったという歴史認識(中根千枝)を前提にすれば、八束説はむしろユダヤ・キリスト教的、西洋的に過ぎたとの批判の余地があるが、 彼の説く「忠孝」は儒学ではなく国学であり、封建制の江戸時代ではなく、天孫降臨~上古時代への回帰が理想とされていた 国学の教義自体、キリスト教的一神教の影響が指摘されている(村岡典嗣)ことからすれば、八束説が一見国粋主義的に見えてその実西洋的なのは当然だった との理解が示されている(長尾龍一)。 ただし、明治民法制定過程で富井が主張した廃戸主制復活に土方寧、横田国臣とともに賛同したように(梅らの反対により実現せず)、戸主個人を絶対的権力者にしようとは考えない。尊重されるべきは祖先の霊であり、戸主はその体現者に過ぎなかったのである。 この祖先教論は広く悪評を得たが、宗教的信念の発露というよりは、極めて実利的な主張だとも解される(藤田宙靖)。家長権の権威付けに役立ち、団体の規律に便利だからという(祖先教ハ公法ノ源タリ)。そこでは、道徳や法律のために人間があるのではない、したがって時空を越えた人倫の大本なるものは、それが何であれ認められず(法ノ倫理的効用)、宗教すらも人類生存の道具に過ぎない(国家ト宗教トノ関係)。 キリスト教と国家の調和を説くルドルフ・ゾーム(ドイツ語版)の説の「キリスト教」の部分を、その社会基盤の無い日本においてクーランジュの祖先崇拝論に置き換えたものである。 父は宗教上の主張としての資格によって、祭祀の永続と、したがって家族の永続とに責任をになう。この永続は彼の第一の関心事であり義務である。 — クーランジュ『古代都市』 実際の日本は天皇家すら11世紀まで男女双系的であり、かつ伝統的に祖先崇拝の役割を担ってきたのは仏教だから、八束の説はもはや神道(国学)とは無関係である(長尾)、あるいは、最晩年には水戸学の隆盛が乱世を招き、明治憲法体制確立により社会が安定したと主張していたことからすると、保守主義ではあっても復古主義ではなかったとの評価もある(坂野潤治)。
※この「穂積八束の法思想」の解説は、「民法典論争」の解説の一部です。
「穂積八束の法思想」を含む「民法典論争」の記事については、「民法典論争」の概要を参照ください。
- 穂積八束の法思想のページへのリンク