科学教育映画の作品と思想
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牧が入社したとき「凸レンズ」という映画を見せられ感想を書けと言われた。牧は「実験は見る人間にとって一番単純明快でなければいけない。仕掛けが分からなければ実験の意味が分からないではないか」と、その映画をボロクソに批判した。その感想を見た小口八郎が、「こいつは科学が分かるから入れろ」と言って牧は採用された。 「冷蔵庫の話」(1960年) 気化熱の働きや,それを利用した電気冷蔵庫、ガス冷凍機の仕組みを分かりやすく解説する。牧が脚本を書き始めたごく初期の作品。牧はこの映画で熱という目に見えないものをいかに見せるかという困難に挑戦した。牧はエーテルを使って「気化すると周りから熱を奪って温度を下げる」「液化するときは周りに熱を放出でして温度を上げる」という現象を見せることを組み合わせ、ガラス細工のシースルーの冷蔵庫を使ってその問題を解決した。牧は「ただ教科書の引き写しをしているだけでは、やってる方もおもしろくないし、そういう所がシナリオライターの腕の見せ所」と述べている。 「科学教育映画体系」(1967-1973年) 牧は「日本の小中学校の科学教育がきちんと原子論の上に築かれていない」ということに不満を持っていた。牧は「分子や原子のイメージは現代科学の一番基礎のイメージで、全部そのイメージの上に乗っている。現代の最先端の自然科学を理解する上でも極めて重要だ」と考えた。そのようなときに国立教育研究所に大学時代の旧知の板倉聖宣が物理教育を研究していることを知り、会って話をすることができた。板倉は当時仮説実験授業を構想しており、その構想を聞いて牧は自信を持って「科学教育映画体系」を構築することができた。 「ものの燃える速さ」(1967年) 教育映画祭最高賞受賞作品。「科学教育映画体系」の一つ。化学反応のイメージを作ることを目的とした映画。牧はこの映画で「炭が燃えるときに酸素の濃度が増えると反応速度が増す」という現象のイメージを作るため、「弾き飛ばされた真鍮玉が炭素原子の結晶模型にぶつかると電球が点灯して反応が起こったことを示す」というシミュレーションモデルを作った。当時も動画の手法はあったが、牧はリアリティを出すために装置を手作りした。その実験装置の開発には多くの試行錯誤と手間や金がかかったが、牧は「反応の強さ、弱さは衝突のイメージがないと作れない」と考えてシナリオを作った。スタッフも牧に協力して作品を完成させた。 「もんしろちょう」(1968年) もんしろちょうの性行動と花の認知行動を実験的に明らかにした科学映画。教育映画特別賞、科学技術映画祭入賞作品。牧が生物学者の日高敏隆のモンシロチョウの研究を知って生物学も科学だなと考えて、日高に映画化を依頼して実現した。この映画では日高の研究をそのまま脚本にしたが、実際に実験してみると予想が外れて、スタッフは「なんだシナリオ通りにならないじゃないか」と文句を言ったが、日高と牧は「予想が外れるからおもしろい」と思い、牧は「やってみて初めて分かる。シナリオにどう書いてあろうと実験は嘘をつかない。とにかく実験だけは正確にやって撮影しておいてくれ」と映画の作成を進めた。何万もの青虫を育て、当初予定の3倍の予算を使い、時間も3年かかった。牧の社内での評判は悪くなり,牧はクビも覚悟したが、岩波映画の経理担当重役の河上信裕(1897-1985)が「これは会社の財産になる映画だ。雑音なんかにめげずにやり続けなさい」と励まされ、牧はその後も映画作りを続ける事ができた。牧は「私は上司に恵まれた」と回想している。完成した映画は仮説と実験の繰り返しで真実に迫るという科学の方法を示す映画となった。
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