科学上の業績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/17 05:40 UTC 版)
1966年、大学院生として赤羽賢治、森本雅樹らによる宇宙電波グループに参加。わが国初の先端大型望遠鏡である長野県野辺山の口径45m大型電波望遠鏡の設計から建設まで、中心的な役割を果たした。この際、波長が最も短い電波であるミリ波におよる星間分子スペクトルの天文学的重要性に着目し、45m電波望遠鏡の高精度化を進めるいっぽう、超大型音響光学型電波分光計を世界に先駆けて開発した。完成後はこれらを用いて星間分子雲からの星の形成の観測、また分子科学の研究者と協力して多くの新分子を宇宙で発見するなど、新しい分野であるミリ波の観測・研究で第一線に立った。この業績により、1987年に森本雅樹とともに仁科記念賞(ミリ波天文学の開拓)、1998年に日本学士院賞(星間物質の研究)を受賞した。査読付きジャーナルへの欧文論文約120編のほか、国際研究会発表論文50編、赤羽・海部・田原著『宇宙電波天文学』などのテキストがある。 1991年、建設を開始するすばる望遠鏡プロジェクトのため野辺山宇宙電波観測所から国立天文台本部(三鷹市)に移り、公募により「すばる望遠鏡」のニックネームを選んだ。1994年からすばるプロジェクト推進部主幹、また1997年からは初代ハワイ観測所長として日本で初めての海外観測所を立ち上げ、またマウナ・ケア山頂での建設をリードして、すばる望遠鏡を完成に導いた。 2000年にすばる望遠鏡の建設を終えて帰国し、国立天文台長となる。ミリ波・サブミリ波の国際計画アルマ望遠鏡を米・欧とともに建設する計画をスタートさせた。また法人化の波の中で大学共同利用機関法人への転換に尽力し、国立天文台の新たな体制を整備した。 任期満了で天文台を退職後は放送大学教授となり、日本学術会議での活動と並行して科学の社会教育に尽力した。研究面では長年のテーマだった「宇宙の生命」に関する研究とその推進に取り組み、地球科学・生命科学の研究者らと共同作業を進めている。 この間、1980年代後半からイギリス赤外線望遠鏡(UKIRT)と野辺山とのミリ波・赤外線日英協力計画を主導して大きな成果を収め、英国王立天文学会から外国人会友(Associate)に推挙された。また1990年以来、東アジアの天文学交流を進める「東アジア天文学者会議(EAMA)」を組織し、2005年に日本・中国・韓国・台湾の国立天文機関の協議体であるEACOA(東アジア中核天文台連合)を設立した。国際天文学連合(IAU)でも1997年から2000年まで会長予定者(President Elect of Executive Committee)、2000年から2003年まで副会長を務めるなど、国際的にも広く活動してきた。2009年からIAU会長予定者を務め、2012年8月にIAU会長に就任(任期は2015年まで)。IAU会長を務めるのはアジアで3人目、日本では古在由秀に次いで2人目である。
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