科学人道委員会とパラグラフ175
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 07:20 UTC 版)
「マグヌス・ヒルシュフェルト」の記事における「科学人道委員会とパラグラフ175」の解説
人道委員会は、同性愛者の権利を守り、1871年以来、同性愛を犯罪であると規定していたドイツ刑法典第175条である、「パラグラフ175」を廃止するための調査・研究を行うことを目標とした(註:ドイツ刑法典175条,Der § 175 des deutschen Strafgesetzbuchs,DE、EN)。彼らは、この法律が恐喝(ブラックメイル)を促進させていることについて討議した。委員会の標語である「科学を通じての正義」は、同性愛に対する適切な科学的理解が同性愛者に対する敵意を除去する、というヒルシュフェルトの信念に反映している。彼は倦むことを知らない運動家・唱導者であり、著名な人物となった。 グループ内でも、メンバーの幾人かは、同性愛者は身体障害者に似ているというヒルシュフェルトの比喩を軽蔑で捉えた。彼らは、身体障害者に対し社会は忍耐であるいは憐憫で対することはできるだろうが、彼らを同等なる者としては扱うことはないということを議論した。彼らはまた、男性同性愛者は生得的に女性的であるというヒルシュフェルト(そしてウルリヒス)の見解に同意しなかった。ベネディクト・フリートレンデルを含む幾人かは「科学人道委員会」から離れ、別のグループを形成したが、しかしこのグループは永続しなかった。委員会は、「男性-男性の愛(male-male love)」は特別な状態と言うよりむしろ、剛健な成年男性の素朴な位相であるということを議論した。 ヒルシュフェルトの指導のもと、「科学人道委員会」は「パラグラフ175」を打倒する請願書のため、5000を越える著名なドイツ人による署名を集めることを何とか成し遂げた。署名に加わった者には、アルベルト・アインシュタイン、ヘルマン・ヘッセ、ケーテ・コルヴィッツ、トーマス・マン、ハインリヒ・マン、ライナー・マリア・リルケ、アウグスト・ベーベル、マックス・ブロート、カール・カウツキー、シュテファン・ツヴァイク、ゲアハルト・ハウプトマン、マルティン・ブーバー、リヒャルト・フォン・クラフト=エビング、そしてエドゥアルト・ベルンシュタインが含まれていた。 廃止議案は、1898年にドイツ帝国議会(Reichstag、EN、DE)に提出されたが、ドイツ社会民主党による少数派の支持を受けたのみであった。このことはヒルシュフェルトを焦燥に駆り立て、彼は、問題の余地があるが、「アウティング(暴露)」の戦術を取ることを考えた。すなわち、「クローゼット(私室)」の外側で沈黙を守っている(つまり、同性愛者であることを外部に対して隠蔽している)著名な立法当事者の幾人かに圧力をかけることを考えた。議案は議会へと提出され続け、結果的に、1920年代に入って審議は進捗し始めた。ナチス党が政権を奪取し、改革の希望をすべて抹消してしまう前のことであった。
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