私立精神科病院の乱立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/10 14:17 UTC 版)
「宇都宮病院事件」の記事における「私立精神科病院の乱立」の解説
高度経済成長期には、精神科病床は1年間に1万床ずつ増加し続け、1950年(昭和25年)の1万8千床が1955年(昭和30年)には4万床、1965年(昭和40年)には17万床、そして1969年(昭和44年)には約25万床となった。この時期に開院した精神科病院は私立病院である。 1958年(昭和33年)10月2日には厚生省事務次官通知により、精神科の人員は一般診療科に対して、医師数は約3分の1、看護師数は約3分の2を基準とする特例基準が認められ、更に同年10月6日の医務局長通知で、事情によっては『その特例基準の人員数を満たさなくともよい』ことになったために、一般診療科の病院よりも人件費を抑えることができ、そして、措置入院の国庫負担も5割から8割に引き上げられたことで、一般診療科と比較して精神科病院の経営が容易となった。また、病院建設費用にも便宜が図られ、特殊法人医療金融公庫から長期低利融資を受けることができるようになり、病院建設自体も容易になった。 精神科病院入院を中心とする精神医療は、当時の精神障害者に対する偏見や差別に基づく日本の社会的背景や世論、日本のハンセン病問題と同じく、日本国政府や厚生省の患者隔離収容政策によるもので、それゆえ、精神科病院の医療従事者数が、特例として一般診療科病院よりも少ない人員でも認可されていた。 精神科医の人数は病床の増加に見合ったものではなく、実際のところ増加した精神科病院に勤務する医師の殆どは、内科医や産婦人科医からの転進であった。精神科病院は、内科や産婦人科よりも利益率のよい事業のため、医師たちは診療科を精神科に変更したのである。宇都宮病院もこの時期(1961年)に、内科から精神科へ事業を変更している。 精神科病院の人員が、一般診療科病院よりも少ない人員でその運営が成り立つ要因として、1950年に、もともとは抗ヒスタミン薬として開発されたクロルプロマジンの存在が大きい。1952年にクロルプロマジンがドーパミンを遮断する効果があることが発見された。これを機に、向精神薬や抗不安薬の開発が活発となり、薬物療法により統合失調症の治療が可能となった。 クロルプロマジンによる薬物療法が行われる以前は、興奮する患者に対処するためには、拘束衣や拘束具を使用した物理的な身体拘束や、看護師や看護助手による対応によって対処する以外に方法がなく、病院の設備や職員に対して経費がかかり、病院経営上の大きな負担となっていた。 だが、クロルプロマジンなどの処方箋医薬品で、患者の興奮状態を抑制することができる様になると、少ない病院職員で多数の患者の管理が可能となり、病院の運営経費が少なくて済むとともに、病床数が多い(患者の処遇が、ベッドも無く『うなぎの寝床』になる状態)ほど、利益を上げられる構造になったのである。 当時の日本の精神科病院の状況を、日本医師会の武見太郎会長は以下のように述べている。 精神医療は牧畜業だ — 武見太郎、『爆弾精神科医』(p.143) 当時の日本の精神科医療は、この程度の低レベル医療であり、精神科医としての実力が伴わない医師でも、精神科病院を経営することが可能な状況だったのである。 無論、こうした現状への批判や警告が皆無と言うわけではなかった。1968年(昭和43年)にはWHOが、日本の精神医療に対して「過剰収容による利益追求が大きな人権蹂躙につながる恐れがある」(WHOクラーク勧告)という勧告を、日本国政府に対して出しているし、翌1969年(昭和44年)にも 日本精神神経学会理事会は「精神病院に多発する不祥事件に関連し全学会員に訴える」という声明を発表している。 日本精神神経学会は、1975年(昭和50年)にも精神外科を否定する決議、および、入院患者の通信・面会の自由に関する決議を行っている。だが、こうした批判とは裏腹に、精神医療の現場の劣悪さは、遅々として改善が進まなかった。
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