社会的な反響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 08:50 UTC 版)
井竿富雄は、政治の場で出てきた不可抗力論は、社会的には見殺しとして受けとめられた、という。新聞社が特派員を派遣して、領事とその家族、居留民、武装解除された日本軍部隊が惨殺された状況、そして、そうなるに至った事情を、こと細かく報道したのである。悲惨な状況が伝わるにつれ、どうしてそんなことが起こってしまったのか、陸軍ならびに政府のシベリア出兵の方針に、問題があったのではないかという疑念が満ちてくる。1920年の秋に9000部刷られた五百木良三のパンフレットは、以下のように慨嘆する。 日本軍は中立を保つという政策がやむをえなかったのだとすれば、兵力を増強しておくべきだった。それを怠って、突然、方針を一転し、赤軍と妥協せよと命じたために、昨日まで友軍だった白軍が残忍きわまる虐殺の下に全滅し、これを見ながら日本軍はなにもできず、見殺しにするしかなかった。たちまち順番は自分たちの上にまわってきて、白軍と同じ運命に突き落とされた。そして、悪戦苦闘の末に生き残った百余人の勇士が、最後の一戦に死に花を咲かそうとした時、またしても停戦命令である。痛恨を忍んで命令に従った結果、武器を奪われ牢獄に入れられ、あらゆる屈辱を加えられた末が、一同生きながらに焚き殺されたという始末。なんというみじめな運命であろう あまりに残酷な事件であったため別々の馬で両足を引き裂いて殺害されたなどの話が昭和になっても多く伝えられることとなった[信頼性要検証]。 事件の唯一の生存者として神戸新聞が井上雅雄の証言を掲載している。その証言では3月3日には電柱に「日本人を鏖殺せよ」という張り紙がされており、3月12日に妻子3名を殺されたことと共に渦中に見た悲惨な虐殺を伝えている。報知新聞もまたその被害を凄惨につたえた。 石田虎松領事の遺児である石田芳子はたまたま尼港にいなかったため難を逃れることができた。芳子が『敵を討ってください』という詩を発表すると、全国各地で開かれる追悼集会で引っ張りだことなった。日本軍犠牲者の遺族の声には、次のようなものがあった。「派遣しておいて孤立無援に陥らせ、新聞報道のような残虐なことに至った当局の処置は、合点がいかず、残念でたまらない」「名誉の戦死ではない。全く徒死だ」「堂々と戦ったのではなく、無惨に殺されたのは遺憾だ」。こういった不満は、政府や軍への批判にほかならず、遺族の割り切れない思いは報いられることなく、むしろ警戒された。三宅駸吾海軍少佐の兄である三宅驥一博士は、「この大事件は政党政派を超越した世界的な人道問題ではないか。私は、ルシタニア号の沈没とベルギーの中立侵害で、留学して世話になったドイツが嫌いになった。今回の尼港事件は、ルシタニア号事件以上の大問題だ。これに対して冷淡な政府と国民とは、人道に対して無感覚になっている人種だと笑われても仕方があるまい。弟だからいうのではない。救援の方法はあったのに、政府が怠って、いまになって不可抗力とは何事だ」と憤慨して同情を集めた。
※この「社会的な反響」の解説は、「尼港事件」の解説の一部です。
「社会的な反響」を含む「尼港事件」の記事については、「尼港事件」の概要を参照ください。
社会的な反響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 21:20 UTC 版)
連載途中から主人公がかぶることが増えた、大きなボンボンが頭上についた毛糸の帽子は「正チャン帽」と呼ばれ、子供たちの間で流行した。 1925年1月には大阪市近辺のすべての「正チャン」と呼ばれる少年たちが、朝日新聞の大阪本社に無料で招待されて、大きな集会が開催された。そこでは食べ物が振舞われ、催し物が開かれ、帽子屋の連合から正ちゃん帽が贈られた。そんな子供たちの様子は写真に収められ、朝日新聞とアサヒグラフで大きく紹介されることとなった。 この作品を原作とした舞台や映画も製作された。1924年10月1日から同月21日までの20日間、宝塚少女歌劇団(現・宝塚歌劇団)月組公演として宝塚大劇場で、演目「正ちやんの冒險」が、正ちゃん役:天津乙女、リス役:住江岸子、悪魔役:千早多津子、天女役:夢路すみ子で上演された他に、1926年には東亜キネマによって白黒の無声映画が公開された。
※この「社会的な反響」の解説は、「正チャンの冒険」の解説の一部です。
「社会的な反響」を含む「正チャンの冒険」の記事については、「正チャンの冒険」の概要を参照ください。
- 社会的な反響のページへのリンク