社会的な動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:11 UTC 版)
異端審問に対して抵抗の動きもあった。例えば、1233年に、審問官フェリエがナルボンヌの新町の住民を異端者呼ばわりしたため、激怒した住民がドミニコ会の僧院に押しかけ、玄関の一部を破壊している。また、1242年にアヴィニョネで、審問官以下12名が惨殺される事件が起きた。さらに1302年には、アルビで司教ベルナール・ド・カスタネが締め出された事件がある。これに激怒した司教カスタネは1299年にアルビ司教区で35人の住民を捕縛し、その内19人に対し終身刑を宣告し、足を鎖で繋ぎ、不衛生な獄舎へと送ったのである。こうしたカスタネの熱心な異端狩りに対し、3年後にアルビの住民はカスタネに対し抗議行動を行うに至った。1302年2月に、トゥールーズから帰還したカスタネを市内に入れないようにする為に、群集が市門に殺到し、罵声を浴びせたという。また同年末には、ドミニコ会士が説教をしようとすると、罵声が浴びせられ、石を投げつけられたと言う。その結果、会士はほとんど僧院から出られない状態に陥ってしまった。また、カルカッソンヌもまた、アルビと同じぐらい「反異端審問」の動きが強く、そこで僧院の院長を勤めたギーは、その大変さを自身の本に書いている。また、1295年にはカルカッソンヌの住民が蜂起し、審問官に石を投げつけたため、ドミニコ会士らは市外に脱出している。これらは、異端審問の制度の是正を促したかに見えたが、最終的には失敗し、反異端審問の活動に加わった者達は、後に審問官による執拗な報復を受ける羽目になった。
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