磯小学校
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 08:13 UTC 版)
磯区民の教育、文化、親睦の拠点として親しまれてきた場所のひとつに、磯小学校がある。磯小学校は、1874年(明治7年)6月、西方庵の一室で開校し、当初は4年制の初等簡易科程度の授業を行った。学制発足当時、網野町地域では小学校の4割が、このような寺院を仮の校舎とした。1883年(明治16年)には2階建ての新校舎が完成した。巾6間、奥行4間、23坪5合の校舎の2階を教室とし、1階に教員室、体操場、物置、教員住宅を備えていた。1889年(明治22年)に磯尋常小学校と改名する。 1890年(明治23年)、学務委員の努力により、磯小学校の優秀な児童が高等教育を受けられるようにするための奨学金制度が発足する。この返済は出世払いとされた。1894年(明治27年)には貧困家庭の児童を対象に二部授業を開始するなど、磯の人々は教育を重視した。1915年(大正4年)には母姉会が結成され、青年会と共に、学習や文化の向上を図って盛んに活動した。小学校に必要な設備である放送機材、サイレン、映写機、ピアノなどの数々の備品は、いずれも磯区民の寄贈によって、1950年代から60年代にかけて整備された。 1927年(昭和2年)の北丹後地震では、運動場が破壊され、2棟あった校舎のうちの1棟が半壊した。そのため児童は、6月11日まで天幕で授業を受けた。校舎を新築するための費用は、磯の家庭1戸あたり百貫目以上の肥料草の刈り取りで稼いだ金額の半分を積立金とし、1929年(昭和4年)に再建された。 1958年(昭和33年)9月には磯小学校が京都府の僻地教育研究会の会場となり、3日間の会期中89名が参加し、宿泊した。 磯小学校は1983年(昭和58年)の学校統廃合で、旧網野小学校が2校に分離し新たに開校した網野北小学校に統合された。児童数の減少が、その理由である。3月30日に廃校式が行われ、109年の歴史に幕を閉じた。1971年(昭和46年)の時点で学級数4、教職員数5名。児童数は、1955年(昭和30年)時点で35名、1965年(昭和40年)時点で21名、1975年(昭和50年)時点で29名であった。 尋常小学校当時、6年間は磯尋常小学校で学べた磯の子ども達は、卒業後2年間の高等小学校は網野の校舎に通った。網野までは、平常時で40分、雪道では1時間かかった。雪が降ると、隣組から日役とよばれる1~2名が出て、網野までの通学路の雪を踏み固める「ミチフミ」をして、通学を助けた。 長年、寺子屋的な場として村の教育や保育に携わった寺院、西方庵は、20世紀末には無住となり、老朽化のため2006年(平成18年)4月に解体された。跡地は共同墓地となっている。
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