磯村に育つ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/22 06:30 UTC 版)
溝尻房蔵は、1883年(明治16年)9月1日、船大工の溝尻満吉の三男として、京都府竹野郡浜詰村磯(現在の京丹後市網野町磯)に生まれた。父は溝尻が幼いころに早世し、母は病弱であったため十分に働くことができず、暮らしぶりは極めて貧しく、溝尻の妹は乳離れしたばかりで養女に出されたという。溝尻は家を手伝いながら小学校を卒業した。 困窮する家庭事情から、溝尻が高等教育を受けることは不可能と思われたが、当時の磯小学校で学務委員をしていた井元勇次郎はその才を惜しみ、磯区の集会にはかって、学校貸付金制度を設立。学校改築費に相当する奨学金制度を設け、その返済を出世払いとして、溝尻に30円を支給した。これにより、溝尻は京都府立宮津水産講習所の一期生として進学することができ、1901年(明治34年)に18歳で製造科を卒業した。卒業に際し、臨時の京都府知事であった大森鐘一より賞状と記念品を授与される優等な成績を収めたという。 その後は東京築地の水産缶詰機械製造所に住み込み、家事手伝いをしながら、東京物理学校の夜間部に通った。その後、農商務省水産課に務める。働きながらの学びは、1904年(明治37年)6月、母重病の知らせにより中断することとなる。溝尻は帰郷して、母の看病に専念し、一時は病状が回復するも、翌1905年(明治37年)8月、母は帰らぬ人となった。
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