直後の影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 17:55 UTC 版)
「カリフォルニア・ゴールドラッシュ」の記事における「直後の影響」の解説
数年間の内に数十万人の新しい人々が到着したことは、それまで15,000人程のヨーロッパ人とカリフォルニオしかいなかった時代と比較して、多くの劇的な影響を起こした。 先ず、ゴールドラッシュの人間と環境のコストは大きなものだった。先住民族は病気、飢餓および虐殺的攻撃の犠牲になり、1845年の推計人口15万人から1870年までに3万人足らずまで激減した。1849年から1870年の間に4,500人程のインディアンが暴力によって死んだと推計されている。明白な人種差別主義者の攻撃と法律および厳しい税金によって中国人やラテンアメリカの民を追い出そうと図られた。アメリカ人移民の損失も同様に厳しいものだった。フォーティナイナーズの場合、ゴールドラッシュの間の死亡率や犯罪率が著しく高く、その結果としての自警主義も犠牲者を出したので、12人に1人が死んでいった。さらに、金の回収操作から生じた砂利、沈泥および毒性のある化学品が魚類を殺し生息域を破壊した。 しかし、ゴールドラッシュはカリフォルニアをほとんど知られていない僻地から、何十万人もの人々の憧れの地に発展させた。新移民はしばしば著しい創造性と公徳心を示した。例えば、ゴールドラッシュの最中に町や都市が認可され、州憲法制定会議が招集され、州憲法が起草され、選挙が行われ、カリフォルニアをアメリカ合衆国の州として認めさせる交渉のために代表団がワシントンD.C.に派遣された。大規模な農業(カリフォルニア第2のゴールドラッシュがこの期間に始まった。道路、学校、教会や市民組織が急速に存在するようになった。移民の大多数はアメリカ人だった。アメリカ合衆国の他の部分に対するより良い対話と政治的な結びつきの要請が強くなり、1850年協定の中で、1850年9月9日にカリフォルニアはアメリカ合衆国31番目の州になった。 1847年から1870年の間に、サンフランシスコの人口は500人から15万人に増加した。ゴールドラッシュの富と人口の増加はカリフォルニアと東海岸との交通を著しく改善させた。パナマ地峡を横切るパナマ地峡鉄道は1855年に開通した。太平洋郵便蒸気船会社が所有するものを含めて蒸気船がパナマからサンフランシスコまで定期便を運行し、乗客、物資および郵便がパナマ地峡の鉄道と東海岸に向かう蒸気船を使って運ばれた。不運なSSセントラル・アメリカ号は1857年にカロライナ海岸沖でハリケーンに遭い、推計3トンのカリフォルニアの金と共に沈没し、これが1857年恐慌の引き金となった。 ゴールドラッシュが終わって数年の1863年、最初の大陸横断鉄道西部部分の起工式がサクラメントで行われた。この鉄道の完成はほぼ6年後となったが、資金の一部はゴールドラッシュの金で賄われ、カリフォルニアとアメリカ合衆国中部および東部とを一体にした。これにより、何週間も何ヶ月も掛かっていた旅が数日で成されるようになった。 ゴールドラッシュは世界中の経済も刺激した。チリ、オーストラリアおよびハワイの農家は、彼らの食料に巨大な新市場を見出だした。イギリスで生産される製品は需要が大きかった。衣類やプレハブの住居までもが中国から運ばれた。これらの商品に対して大量のカリフォルニア金が代金として支払われ、世界中で物価を上昇させ、投資を刺激し、雇用を創出した。オーストラリアの探鉱者エドワード・ハーグレイブスはカリフォルニアと母国の地形の類似性に注目し、オーストラリアに戻って金を発見し、オーストラリア・ゴールドラッシュに火を付けた。
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