直心影流修行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/09 01:04 UTC 版)
1886年(明治19年)、直心影流剣術の榊原鍵吉門人であった佐竹鑑柳斎(観柳齋)がたりたの住む町で撃剣興行を行う。撃剣興行に魅せられたたりたは、父親の激しい反対を押し切り一行と行動を共にする。撃剣興行では「美人剣士」として人気が高かったという。 撃剣興行に参加しながら、鑑柳斎やその妻から直心柳影流薙刀術を学ぶ。稽古熱心なたりたは朝夕千本の素振りを日課とし、めきめきと上達した。1888年(明治21年)に直心影流薙刀術印可状を得る。その際に師である鑑柳斎から「秀雄」の名前を名乗ることを許され、以後「たりた」から「日下秀雄」と改名する。 1891年(明治24年)、同じ撃剣会にいた剣術家の吉岡五三郎と結婚。後に娘をもうけるが吉岡と死別する。夫の死後、幼子を抱えながら巡業を続けていくことが困難なため、娘は養女に出された。 1896年(明治29年)には直心影流薙刀術宗家を継承。同年、直猶心流剣術・鎖鎌術第2代宗家の園部正利と再婚し「園部秀雄」となる。 1897年(明治30年)、本所回向院境内での撃剣興行に参加。秀雄が参加した撃剣興行はこれが最後であると思われる。以降、大日本武徳会で活動する。
※この「直心影流修行」の解説は、「園部秀雄」の解説の一部です。
「直心影流修行」を含む「園部秀雄」の記事については、「園部秀雄」の概要を参照ください。
直心影流修行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 19:58 UTC 版)
天保13年(1842年)、13歳のときに直心影流剣術・男谷信友の道場に入門する。当時、男谷道場は広尾から近い狸穴にあった。しかし、同年に母が死去し、父・益太郎は下谷根岸に移ったために狸穴は遠く不便となった。その上、鍵吉は亡き母に代わって家の雑務や兄弟の面倒を見る必要があった。見かねた男谷は、玄武館・士学館・練兵館など名のある道場の方が近くて便利だと移籍を促した。しかし鍵吉は、いったん入門した以上は他に移る気はないと言って通い続けた。 鍵吉はめきめき上達したが、家が貧乏なため、進級しても切紙や目録など、費用のかかる免状を求めたことがなかった。嘉永2年(1849年)、男谷は事情を察し、男谷の方で用意を整えてやり、鍵吉に免許皆伝を与えた。
※この「直心影流修行」の解説は、「榊原鍵吉」の解説の一部です。
「直心影流修行」を含む「榊原鍵吉」の記事については、「榊原鍵吉」の概要を参照ください。
- 直心影流修行のページへのリンク