発見の経緯と出土
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富本銭は、1694年(元禄7年)発行の『和漢古今寳泉図鑑』に「富夲銭」として登場し、1798年(寛政10年)に丹波国福知山藩8代藩主 朽木昌綱(くつき まさつな)により刊行された古銭目録『和漢古今泉貨鑑』には、「富本七星銭」として図柄付きで載っており、昔から貨幣研究家の間では知られていた。『和漢古今泉貨鑑』では富本銭を「古寳銭」と分類し、「夲」は「本」字の代わりに使用されたものであると指摘している。富本銭を含む朽木昌綱の収集品は、昌綱死去後の幕末に、藩財政の危機及び洋式軍備の必要のため、50丁のゲベール銃との交換でドイツ人に売却されたが、1999年に大英博物館に収蔵されているのが発見された。 1889年(明治22年)、収集家、今井風山は『風山軒泉話』のなかで、「その作りが古朴で和同銭と違わない。銅質が古和同と同じである。」と古代のものと推定されることを指摘している。 明治期に発掘されたとされる長野県下伊那郡高森町の武陵地古墳群(通称「秋葉塔の塚」)から、背文「大観通宝」「富本」の古銭が3点出土したとの記録がある。この古銭が富本銭ではないか?ということで、1999年(平成11年)奈良国立文化財研究所に調査が依頼され同年3月、近畿圏以外で初めて出土が確認された。高森町から出土したものは、飛鳥京跡の飛鳥池工房遺跡から出土したものに比べ、わずかに外径が小さく軽い。 その後、戦後の遺跡調査の進展もあって、富本銭の出土が相次ぐことになる[要出典]。 1969年(昭和44年)に平城京跡から、1985年(昭和60年)には平城京跡の井戸の底からも出土した。 1991年(平成3年)と1993年(平成5年)には、さらに古い藤原京跡からも相次いで出土された。 これにより、今まで最も古い貨幣とされてきた708年発行の和同開珎よりも古い可能性がでてきた。 1995年(平成7年)には、群馬県藤岡市の上栗須遺跡から1枚出土している。 1999年(平成11年)1月、飛鳥京跡の飛鳥池工房遺跡から33点もの富本銭が発掘された。それ以前には5枚しか発掘されていなかった。 33点のうち、「富本」の字を確認できるのが6点、「富」のみ確認できるのが6点、「本」のみ確認できるのが5点で、残りは小断片である。完成に近いものの周囲には、鋳型や鋳棹、溶銅が流れ込む道筋である湯道や、鋳造時に銭の周囲にはみ出した溶銅である鋳張りなどが残っており、仕上げ段階に至っていないことから、不良品として廃棄されたものと考えられる。 富本銭が発掘された土層から、700年以前に建立された寺の瓦や、687年を示す「丁亥年」と書かれた木簡が出土していること、『日本書紀』の683年(天武天皇12年)の記事に「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」との記述があることなどから、発掘に当たった奈良国立文化財研究所は、同年1月19日に、和同開珎よりも古く、683年に鋳造されたものである可能性が極めて高いと発表し、これにより「最古の貨幣発見」「歴史教科書の書き換え必至か」などと大々的に報道がなされた。 その後、4月以降の追加調査では、さらに不良品やカス、鋳型、溶銅などが発見された。溶銅の量から、実に9000枚以上が鋳造されたと推定され、本格的な鋳造がされていたことが明らかになった。アンチモンの割合などが初期の和同開珎とほぼ同じことから、和同開珎のモデルになったと考えられる。 2008年(平成20年)3月には、2007年(平成19年)11月に藤原宮跡から地鎮具として出土した平瓶(ひらか)の中に水晶と共に富本銭9枚が詰められていたと発表された。これらのうち、少なくとも8枚が従来のものと異なる書体「冨夲」(「冨」字の「一」も省略)であることが確認され、飛鳥池遺跡発掘のものより厚手であった。このうち4枚は富本銭の特徴とされてきたアンチモンの含有が確認されなかった。 2012年(平成24年)1月31日放送のテレビ東京『開運!なんでも鑑定団』で個人所有の冨本銭が鑑定依頼品として出された。藤原宮跡から出土したものと同時期に鋳造されたと判明した。 富本銭(複製品)
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